「主よ、・・・わたしたちにも祈ることを教えてください」
ルカ11:1
このように、祈らなかった人はいないかもしれません。
けれど、「祈ることを教えてください」と祈りながら、
いったい、何を祈ろうとしていたのでしょうか。
イエス様がその祈りに答えて、祈ることを教えて下さる時、私たちは驚きを隠せません。
なぜなら、イエス様が私たちに祈ることを教えられる時、まず、悩みを送られるからです。
第一に、霊的悩みを送られます。
しばらくの間、神様はご自身を隠され、私たち人間のもつ宗教性がどれほど無力であるか
を明らかにされます。私たちの霊的生命は乾き、しおれます。祈りも、聖書朗読も、信仰
も、愛も、悔い改めも、自己犠牲も、献身の精神もすべては枯渇します。
そして、たぶん同時に、この世の悩みも送られるでしょう。
そうなれば霊的悩みとこの世の悩みが重なり合って、おそいかかり、苦しみの杯は溢れる
ばかりになります。
その時に、はじめて、真実な魂は、今まで知らなかった祈りの側面を学びます。
それは、祈りは「無力な魂」のためにあるということです。
祈りとは、ひと言も発しないで、神の前に静かにひざまづくことであることを学びます。
祈りとは、イエス様に対して心を明け渡し、あらゆる悩みのさ中に入っていただくことです。
その時、「主よ、私にも祈りを教えてください」ということばが、
本当の意味をもってきます。私たちは悩みや苦しみをおそれ、
また、神をもおそれるものであることを正直に認めなければなりません。
そして、あの主イエスの十字架の釘に刺された御腕にすがる時、
真の平安と喜びを得るのです。
そこで、祈ることを知らない人のために、聖霊がつくられた祈りの学校に入学して、
祈ることを学ぶのです。
O・ハレスビー聖書日課「みことばの糧」-日々新たにー から

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