6月9日(火)☁
デボーション
聖書:使徒行伝12章
ペンテコステで聖霊を受けた弟子たちは、
迫害をも恐れず、大胆に福音宣教の道を進む。
12章では、ヤコブの殉教。ペテロの投獄と天使による解放。ヘロデ王の急死が記載されている。
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この記事の事件がおこる、
丁度一年前の除酵祭の頃、主イエスは捕えられ、ペテロは逃げた。
しかし、ペンテコステを通過したペテロは逃げない。
獄中で手に足に鎖が繋がれても、彼は自己憐憫に陥ることもなく、主を否まない。
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とは言うものの、
怪力でもないペテロが、なぜ、二重もの鎖でつながれなければならないのか不思議に思う。
それほど、人々は主の力が働くことにおそれの念を抱いていたということなのか。
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ペテロをがんじがらめにする二重の鎖も、種々の衛兵所も、
天使の導きの中で、あっさりとペテロは解放された。
「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」(5)
のだから、スゴイ。
ここでは、彼らは投獄された者も、そうでない者も皆一つとなって、闘う。
かつては、主の御苦難を見て、蜘蛛の子を散らすように散っていった人たち。
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「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)
受胎告知の天使のことばと重なる。
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しかし、主イエスの十字架はなんと孤独だったことか。
主は誰からも理解されることなく、
一人茨の道を歩まれた。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしからとりのけてください。
しかし、わたしの願いではなく、みこころのままに行ってください。」(ヨハネ22:42)
とゲッセマネの祈りの中で、父が差し出された十字架の杯を一人飲み干すイエス。
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ここ12章でのペテロの獄中からの解放は、打って変わって、まるで夢をみているかのようである。
何が違うのだろう?
そうだ、「使命」が違うのだ!
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主イエスの地上における使命と、
ペテロの使命の宣教の使命。
☨
神はひとり、ひとりの個別に与えられた使命のための必要のために、全てを備えられるが、
その使命のために、また道を閉ざされることに気が付かされて、
今朝のデボーションは聖会だった。
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