神に視線を向けることをやめる時、私たちは霊的に沈み始める。
この霊性の低下は、外部からの問題が引き金となって起こるのではない。
「少し張り切りすぎたかもしれない。つつましくあるべきなのに、
神に少しでも近づこうと背伸びをし過ぎたかもしれない。」
このような努力(※神に近づこうとする努力)は、
決してしすぎることはない、ということにわたしたちは気づくべきである。
気をつけなければならないのは、困難が訪れた時に神に対する立場を固くとって、
聖霊のあかしを得ていながら、週が月と変わるころ(※暫く時がたってみれば)、
「結局、わたしはうぬぼれていただけではなかろうか」と考えるようになることである。
そこへ合理主義をモットーとする友人がやってきて、
「・・・・・神だって、そんなことは期待していない」言う。
ぞれに対してあなたは「そうかもしれない。少し欲張りすぎたよ」と答える。
これは、一見謙遜に聞こえる。
しかし、神への信頼の代わりに世俗の意見を取り入れてしまっているのである。
あなたはすでに、神から視線をそらしたのである。
自分がどのように流されたかに気づくのは、
神があなたに立ち止まることを命じられた時である。
霊性が沈み始める時、ただちに手当を施せ。
神との間に何らかの障害を見出したら、
時間を置かずに、その再調査を行なえ。
チェンバーズ聖書日課11月24日から