プロデュースユニット「ななめ45°」

白木原一仁による表現ユニット。関西を拠点に、パントマイム/ダンス/音楽を取り込んだ演劇をプロデュース形式で展開中!!

山の声

2011年01月23日 11時03分10秒 | シロキハラの素ン晴らしい日々
日に当たってると温かい気がします。

でも指先はジンジンしとります。
やはり寒いのな。

昨日、くじら企画「山の声」観てきました。
加藤文太郎という登山家のお話。
新田次郎著「孤高の人」で描かれた人のお話です。
マンガにもなってるよね。


いや~、何と言うか。

圧倒された。

加藤文太郎と吉田富久の最後の登山を演じていて。
登山記録の語り口調から会話へと繋がり、言葉のひとつひとつがその空間に舞い降りてくる。
寒さに震えつつ、口にする事で確信に繋がるそれぞれの想いが、降り積もる雪とリンクしていく。

雪山で遭難した2人が、寒さと疲労の中で思い起こす過去と現在。
行きつ戻りつ彼らは歩き続けていた。
山を登る事が、不器用な彼らの生き方であり歩み方であったのだろう。

しかし、チームではなく単独行を選ばざるを得なかったのは、彼の才能なのか業なのか。
一人で登破できる技術・体力・知識が、逆に他からの信頼に繋げられなかったのは非常に悲しいことである。
安心と安全の狭間で悩む姿が、やはり普通の人間なのだということを物語っていたように思う。

そして「山に登る」という事は、「降りる」という作業も同時に必要な行為だ。
むしろ下山のほうが危険を伴うはずである。来たルートを戻るのでなければ尚更の事。
いったいどんな想いがあるのだろう。
作中ではあまり触れなかった事であるが(見逃していたのかもしれないが)、非常に興味がある。
解放なのか、覚醒なのか、回帰なのか。

いずれにせよ「帰る場所がある」という事が、それだけで多くの意味を持つ。
それが、どんな状況にあっても諦めない理由となるのだ。
「会社に遅刻しないように下山しないと」という言葉には悲しさと笑いが、同時にそこにも彼なりの安心と安全の狭間が見え隠れしたように思う。

おそらく、目指していたのは未来ではなく立ちはだかる現実であり、それを五感全てで認識する事が目的だったのではないだろうか。
自然の驚異が見せる雄大さ、優美さ、厳格さが、生きる実感としての本能をくすぐり呼び覚ます。
それが飽くなき挑戦へと繋がっていたと。


2人で2時間という長丁場を、途中の出ハケ・休憩無しに上演。
その集中力と体力にも目を見張るものがあった。

会話の「間」を極力削り落とし、だが確実に内容を届かせる演出。
どんどん舞い込み降り積もる雪。相当な量。


残念だったのは、もっと積もってほしかった。
現実的な理由も分かりつつ。

でも、それだけ。
とても良かった。