中国の武漢研究所で8年前に分離済み、ヒト感染コロナウイルス
今回は、コロナウイルスの基礎研究に関連してお話ししたいと思います。
新型コロナウイルス感染症の対策や、その基礎研究を難しくしている大きな要素の一つに、実験が困難なことがあげられます。
早い話、一番よく利用されるマウスを使って実験することができません。というのは、マウスはコロナに罹らないのです。
手近な実験動物で症例が研究できれば、様々な対策が取りやすい。しかし現実に有効な実験には霊長類を実験動物とする必要があり、サルでは、ネズミよりも施設も当然大規模となり、安全性の面からも問題が少なくない。
そうしたなかで、ネズミのゲノムに人間の遺伝子を組み込んだ「トランスジェニック・マウス」が作り出され、ネズミなのに人間の新型コロナを発症させられる、といった使われ方がなされています。
「ヒト遺伝子移植」マウス実験は無理
人間の遺伝子を組み込んだ「サンプル」での実験というのは、倫理的な面で様々な問題を指摘することが可能ですから、非常に慎重に検討されねばなりません。
この場合、上記のような「トランスジェニック動物」は、倫理的な問題を比較的簡単に回避できる可能性があります。
ヒト固有の病気を調べるのに、マウスを使って実験できるというのは、確かに手軽ではある。新型コロナウイルス対策の研究に、マウスを活用できれば、一定のメリットも期待できます。
ただ、一定のメリットにとどまるのもまた事実のようです。
というのも、ヒトの遺伝子を組み込まれたマウスは、確かにコロナウイルスに感染するようにはなるのですが「肺炎」になったり、それが重症化したりはしない。つまりヒトの病態を再現する実験動物にはなっていない。
本当に臨床に役立つ基礎研究を進めるには、やはり霊長類、つまりサルを実験動物に使う必要がある。
新型コロナが本当に全世界的に蔓延するようになってからの基礎研究には、このような困難が随所に存在しています。
しかし、コロナが流行する以前であれば、このような研究の必要はなかった。
つまり、実際に多数の人間が新型コロナ「肺炎」に罹り、その治療が問題になるような段階では、実験動物も肺炎に罹患する必要がありますが、発病以前の状態、病原体であるウイルスだけを研究するのであれば、極端な話、マウスも必要ありません。
そのような意味で先駆的な研究が、中国の「武漢ウイルス研究所」でなされていたケースをご紹介しましょう。
「武漢ウイルス研究所」流出説を検証する
JBpress連載のラインナップ内でも、古森義久さんのコラム「真相は暴かれるのか? にわかに強まる新型コロナ「研究所流出」説(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65593)」など、武漢ウイルス研究所を巡る話題が取り上げられています。
一連の議論には2つの論点が指摘できます。一つは「中国によるウイルス兵器開発だったのではないか?」という議論。
もう一つは、中国がウイルスの起源であった場合、国際社会が求める可能性がある「補償」の問題。
生物兵器の議論は、しばしば陰謀説めいた話になりやすい。でも今回のウイルスに関しては、そのような可能性は低いことが、ウイルスのゲノム解析から示されています。
しかし私も含め科学側の人間の間では解決済の問題ですが、いまだに時折再燃するのを見ます。
例えば、武漢ウイルス研究所流出説をとるこのウォールストリート・ジャーナルの記事(https://www.wsj.com/articles/the-science-suggests-a-wuhan-lab-leak-11622995184)の場合、トップオーサーのSteven Quay(https://drquay.com/bio/)はアカデミシャンではなく企業人ですし、セカンドオーサーのSteven Muller(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%BC)は、元来素粒子実験が専門のカリフォルニア大学バークレーの物理学者です。
このミュラー氏、地球温暖化などでの発言が知られる70代後半の名誉教授ですが、分子生物学の専門家ではありません。
そして彼らが根拠として引く、フランスとカナダのチームによるBruno Coutard以下連名の論文(https://www.researchgate.net/publication/339153857_The_spike_glycoprotein_of_the_new_coronavirus_2019-nCoV_contains_a_furin-like_cleavage_site_absent_in_CoV_of_the_same_clade)を普通に読んでみると、新型コロナのスパイクを構成する糖たんぱくに、親戚のコロナウイルスに見られないフーリン(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3_(%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E8%B3%AA))に類似した切断酵素的な特徴があることを述べていて、陰謀説などとはおよそ縁遠い内容です。
しかし、前掲のウオール・ストリート・ジャーナル記事には「intentionally supercharging viruses to increase lethality(致死性を強化する意図的なウイルス)」の「スーパーチャージ」といった表現がみられる。
科学に責任を持つ一人の大学人として、こうした表現の「ずれ」は冷静に指摘しておかねばならないと思います。原論文の記述のどこにも「意図的な細工の証拠」といった議論を見出すことはできません。
では、新型コロナウイルスの出現と、中国での基礎研究は無関係なのでしょうか?
関連の議論のなかで浮かび上がってきた一つのポイントとして、決して意図したわけではなく、でも結果的に、武漢ウイルス研究所が今回のウイルス誕生に関わりがある可能性を考えてみたいと思うのです。
2013年、ヒト感染コロナは武漢で分離
ここで科学誌「ネイチャー」に発表された一つの論文を紹介しましょう。
(https://www.nature.com/articles/nature12711)
「ACE2レセプターを用いた、コウモリのSARS-類似型コロナウイルスの分離と特徴解析(Isolation and characterization of a bat SARS-like coronavirus that uses the ACE2 receptor)」
非常に優れた内容の論文であると専門家から解説を受けました。
日付は2013年10月30日、筆頭著者は 葛行义(Xing-YiGe)、所属は「中国科学院武漢ウイルス研究所 特殊病原体ならびにバイオセーフティ・キーラボラトリー(Key Laboratory of Special Pathogens and Biosafety, Wuhan Institute of Virology, Chinese Academy of Sciences)。
いまから8年前、コロナの世界的流行に6年先立って、武漢ウイルス研究所でいったい何が明らかにされたのでしょうか?
この当時、中東を中心にMERS(中東呼吸器症候群)の蔓延が大問題になっており、SARS(重症急性呼吸器症候群)、MERSともにコウモリに由来する可能性が示唆されながら、その祖先と同定されるウイルスは見つかっていませんでした。
中国のみならず欧州、アフリカなど世界のコロナウイルスが調べられましたが、系統発生的な観点から、SARSやMERSの直接の先祖とは考えられないのです。
というのも、SARSは人間の細胞表面に存在するACE2(アンジオテンシン変換酵素)を「鍵穴」に見立て、そこに「ツノツノ」すなわちスパイクタンパク質の「鍵」を結合させて侵入、つまり「感染」していくのですが、世界各地のその種の「親戚コロナ」の中に、ヒトACE2をこじ開けられるウイルスは発見されていなかったのです。
2013年、武漢で行われた研究は
「雲南省で発見されたキクガシラコウモリ(rhinolophidae)を宿主とする2つの「コウモリ・コロナウイルス」(RsSHC014とRs3367)がヒトACE2を利用可能であることを突き止め、これらの動物SARSの自然宿主であることを明らかにするとともに、これらウイルスを分離、全ゲノムを解読して特徴を明らかにした」
なかなか画期的な成果なのです。
武漢ウイルス研究所の葛氏らは「キクガシラコウモリ」の糞から得られた上記2つのウイルスが「ヒト」「ジャコウネコ(civets)」そして「コウモリ」の「ACE2」をこじ開けることができる事実を明らかしました。
また、これらの全ゲノム配列を解読・解析することでヒトSARSウイルスと99.9%の一致があることを「世界で初めて発見・確認」したとしています。
ただ「宿主」については先行研究がありました。
キクガシラコウモリがSARSウイルスの自然宿主であることは獣医学の分野では2005年時点で、北京獣医学研究所のWendong LIを筆頭著者に、すでに2005年時点で米国の科学雑誌サイエンスに発表されており(https://science.sciencemag.org/content/310/5748/676/tab-figures-data)、自然宿主の確定自体が新発見というわけではないようです。
2005年時点でコウモリの肛門分泌液からすでにSARSウイルスは確認済み、両論文には共通する著者もあり、日本獣医学会の日本語での解説すら霊長類フォーラム・人獣共通感染症連続講座(https://www.jsvetsci.jp/05_byouki/prion/pf168.html)として出ていました。
それはそれとして、2013年武漢論文はどのような意味を持つのでしょうか?
遅くとも2013年10月の時点で、武漢ウイルス研究所には、SARSコロナウイルスと同じキクガシラコウモリからSARSとは別の、人間に感染可能な「新型コロナウイルス」を2種類(RsSHC014とRs3367)すでに手にしていたのです。
それらを培養細胞で増やしてゲノム解析し、完全な遺伝子配列まで確定済であった。武漢はコロナについて、大変進んだ業績を挙げていた。
これら「RsSHC014」「Rs3367」と今流行している新型コロナとのゲノムの間には、直接の祖先—子孫という関係はないとのことです。
つまり、2013年型武漢新型コロナウイルスが漏れ出して、今回コロナの大惨事を生み出したわけではない。
また、改めて強調するまでもないですが、この研究には別段、陰謀とか、殺傷力を強めるためにスーパーチャージしたとか、おどろおどろしいことも一切ありません。
純粋に基礎医学的な先端研究成果として、今から8年前の時点で、「武漢ウイルス研究所」は、自然界に存在し、キクガシラコウモリの体内で増殖していた「ヒト感染可能な新型コロナウイルス」を2種類も、分離していた事実を確認しておきたいのです。
それらは武漢で培養され、単離され、分析されて完全なゲノム配列が確定しており、かつ今回コロナと直接の親子関係はない。
この事実は、より広く世界に共有されてよいと思います。
「生物兵器開発」などの陰謀説は一切無関係です。
キクガシラコウモリには2013年時点でも、SARS、RsSHC014そしてRs3367と3種類「ヒトに感染しうるコロナウイルス」が知られていた。
その時点で、未知なる第4、第5のウイルスが存在して全く不思議でないし、その後の突然変異によって、今回コロナが誕生する可能性も、普通に考えられる。
その「あたりまえ」を共有したいのです。
2013年、武漢で行われていたのは、当時も全世界喫緊の課題であったMERS対策を念頭に、自然界に存在しうるヒト感染型コロナウイルスを探索する研究でした。
そして実際に2種類も発見し、それらを培養細胞で増やし、全ゲノム配列を確定、人類のSARS、MERS対策に役立てようとする真面目な取り組みであった。
同時にまた、この事実が別のリスク(様々な不可抗力によるヒト感染可能性)も示唆しているのですが、これについては続稿に記します。
不毛な陰謀説は私たちの未来になにも本質的な寄与をもたらしません。データに即してネクスト・パンデミックの予防対策を強化徹底することに私は意義を見出します。
末尾ながらNature2013年の葛論文の存在を教えていただき、ゲノムAI生命倫理の重要な議論を共有していただいたハーバード大学医学部、ボストンこども病院の林田和隆先生に心からの感謝を記し、より進んだ詳細は続稿に記します。
(つづく)
筆者:伊東 乾