密教姓名学 「なまえ」とは何か?より続き
ところが、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの言語論では、「言語」とは「記号」であり、そのものの実体などとは関係なく「恣意的」に「名」がつけられており、「構造」の中でだけ意味があるにすぎない、とします。
老子や釈迦の考え方なら、もともと物事に実体などなく、「名」つまり「言語」は「関係」を表しているものでしかありません。
「関係」は「構造」と言い換えることもできますから、東洋思想から見ると、シュールの言い分も、とりわけ目新しいものではありません。
ソシュールの言うように、「名」は「実体」を表すものでなく、ある「構造」の中でだけ意味がある、としても、孔子の言うように、「非戦闘地域」にだけ派兵できるという「構造」の中で、「戦闘」を「武力衝突」と言い換えて撤退を免れるのは、「文化」や「文明」に対する裏切りであり、「正名」できないと政治が成り立ちません、と心ある政治家や文化人なら考えそうなものですが、近頃はそんな人もいないようです。
ソシュールの理論では、たとえば「走る」という言葉の価値や意味は、「歩く」とか「止まる」とか、「走る」以外の言葉との要素の違い、つまり「差異」にある、と言いますが、「戦闘」と「武力衝突」に「差異」が認められるとも思えません。
赤ちゃんが「ママ」という言葉を覚えても、まだ「ママ」が「母親」のことか、「母乳」のことか、それとも自分以外の「他人」のことか、理解しているとは限りません。
しかし、「ママ」は母親、「パパ」は父親、「ババ」は祖母またはそのきるようになると、「差異」が生れたことになります。「差異」とは「関係」のことだったのです。
つまり、「言語」は「記号」でしかない、と言いますが、「関係」を表す「記号」が「言語」である、
と言い換えるべきです。
「名は体を表す」と言いますが、人間の「姓名」がその人を「関係」として正しく表すことができるか、というと、それほど簡単ではありません。
特に出生時につけられる名前は、こんな人になってほしいという、親の希望が盛り込まれているものですが、実際にどうなるかは、もちろんわかりません。
たとえば、「慎太郎」という名前の人がいて、「慎」は「つつしみ」とか「慎重」の意味で、「太郎」は「長男」という意味のほか、「皇帝を警護する武官の筆頭」という本来の意味から「強い」というイメージ。「坂東太郎」などのように「暴れ者」の意味でも使われます。
結果から見ると、この人は長男のようなので、その「関係」だけは符号していますが、「つつしみ」もなければ「慎重」でもなく、「尊皇」の志はまったくないと表明していますから「太郎」とは言えず、まるで「正名」とは言えません。
そもそも、「慎み深い暴れん坊」という、「慎」と「太郎」の組み合わせには無理があり、この人の才能が伸び悩んだのも、その矛盾したイメージのため、という穿った見方もできないことはありません。
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