呑舞さんの脳活俳句日記

俳句漬けの毎日。夢の中でも俳句を詠み、昼間は時々カメラを持って外出し、俳句の材料を捜す日々。句会報告や俳論を掲載します。

71年目の敗戦忌

2016-08-15 08:34:38 | 俳句

愚陀佛庵インターネット俳句会特選句(八木健先生選)

  我が家では、父親が軍需工場の技師であった為、徴兵免除になり、家族から戦死者を出す事は無かったが、母方の二人の叔父が、一人は海軍へ、もう一人は陸軍へ徴兵された。

  海軍へ徴兵された上の叔父は、終戦間近になってから、南方作戦に従軍すべく輸送船で航行中、アメリカ軍の潜水艦に撃沈されたが、多くの戦友が鮫に追われたり、溺死して海の藻屑と消え去る中、運良く救助され、戦後日本へ帰還する事が出来、その後子供をもうける事も出来た。しかし、叔父は、戦後従軍中の事について多くを語る事なく、その後、従軍中のストレスから全身癌に犯され、50代前半で亡くなった。

  陸軍へ徴兵された下の叔父は、ビルマでの所謂インパール作戦に従軍し、熱帯雨林の中での行軍中に戦死したと伝えられた。このインパール作戦は、軍上層部の判断ミスが生んだ悲惨な作戦であったとも言われ、交戦による戦死者よりも、餓死と病死によるものが殆どであったらしい。叔父の遺骨は、内地へ帰還することも無く、戦地でどの様に亡くなったのか、今では知る術も無く、それを伝える叔父の父母(私にとっては祖父母)や兄弟姉妹も既に亡くなってしまった。

  上掲の句は、今では日本へ還る事の無い下の叔父の無念の情を詠んだものである。八木健先生は、この句について、「叔父さんの無念を思いやることも反戦の意思表示につながるものである。風化させてはならないことを伝えて行かねば」との有り難い評を付けて下さった。

      語り継ぐべき事多し敗戦忌      呑舞

     泡盛に酔へぬ時代の闇昏し     呑舞

     愚かなる人知及ばず終戦忌    呑舞 

  我が家は、当時身重だった母親を伴って、親子4人で鎌倉から原爆投下4日後の広島を通り、長崎への原爆投下の翌日10日には、佐賀廻り(鹿児島本線が爆撃を受けて通行不能であった)の電車で熊本へ向った。途中、広島や長崎での多くの被爆者が車中に溢れ、車内は正に生き地獄であった。その時の鮮烈な記憶は、今でも脳裏から離れない。後に公開された「原爆の絵」の有り様を超える凄惨な地獄絵であった。8月13日熊本駅に辿り着いたが、熊本駅周辺にも多数の死者の骸が放置されていた。ただ、この時には、感情が麻痺しており、ただ飯にありつきたい一心であったと思う。その夜の熊本一泊を可能にしてくれた旅館で提供された白米ご飯の美味かったことは、生涯忘れられない。翌14日午後、八代にある父の実家へ辿り着き、翌15日に終戦と成った。 この逃避行がどのような意味を持つたのか、父からは、その後も何の説明もなかった。その後数年間、八代で過ごした青春期の思い出は、私のその後の人生に大きな影響を与えたことだけは間違いの無い事実である。

平成28年7月15日記



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