今日はねおすの仮設住宅を朝8時15分に出て
近くのホームセンターさんに二層ダンボールをいただきに行きました。
ワゴン車いっぱいのダンボールが手に入りました!!
本当にご協力ありがとうございました。
そのあとは1時間半ほど海岸沿いの清掃をして、お昼ご飯を食べにはまなす商店街にGO-
「ごはんや松の根亭」であづまっぺ弁当を食べてきました。
おしるこをはじめ、卵焼きや自家製味噌のみそ汁など美味しく頂いてきました!!
ご馳走さまです。
お腹も満たされ椅子ダンボールの作成作業開始。
型を取って、カッターでカットして組み立てます。
・・・・強度弱いかも?!笑
試しに座ると何とか座れるけどうーん・・・・やっぱり強度弱い。笑
あと1週間あるので思考錯誤してもっと強度強くしなければ!!
今日は漁師さんと一緒に土のうの下準備と椅子ダンボール作業工程の目途をたてていました。
土のう40個くらい作ったのであと39960個くらい作ります。
いやー、道のり長いです
これからみんなで頑張っていきます!!
漁師さんからたくさんの話を聞かせて頂きました。
土嚢袋の口の結び方や
ヒモの端と端の結び方などが
目的によってまったく異なり
そこに猟師さんたちの長年の知恵がこめられると思うと
頭が下がります
ヒモを結ぶときにバーナーや小槌を使うのですが
何に使うかわかりますか?
そういう話をこれからしていこうと思うので
お付き合いいただけたらとおもいます。
また今日、新しいファミリーがねおすにいらっしゃいました!!
大阪からはるばる来て頂きました!
皆でご飯を食べながら色々な考え方を共有しました。
明日からも写真を貼り付けていこうとおもいますので
ぜひブログの更新を期待してください。
ちょろぎ
や
しどけ
など山菜が豊富にそろっている
どんぐり広場でお買い物
この地区は
東北の風景が
味わえる
☆1年ぶりに、この地区の自然を案内できて嬉しい
ここ最近のツアーは
被災地視察のガイドがほとんどだと
釜石のボランティアガイド会のHさん
☆3つ連なる橋野の水力発電
山の高低差を生かした
効率的なつくりになっている
この3つの発電所で1,000世帯ほど
が暮らせる
☆高炉跡と石割れサクラ
鉄鉱石
木炭
水
が豊富な土地で
最盛期は1,000人ほどがこの高炉で働いていた
この立派な石割れサクラに
会いに来る方も実は意外に多い
☆【大盛況】峠の茶屋
お昼は峠のカレーと味噌おでん
新聞やTVで知って、来てくれたお客さん
で店内は大賑わい
以上はG.Wボラエコツアー3日目の様子
富田
☆豪雨のなかの鵜住居地区を知る
もともとどういった地区なのか
どういった方々が住んでいたのか
どういった被害があったのか
どういった支援活動をしてきたのか
どういったボランティアさんが関わってきたのか
道路が冠水して通行止めになるほどで
地に足はつけけられなかったが
今年ねおすを卒業した二人の地元ガイドは
伝えたいことを伝えようとした
☆お昼=柏を囲む会
こういった方々が後ろから
支えてくれるから頑張れる
☆午後は平田地区へ
↑ボランティアさんがお手伝いした伊藤家を見学
↑仮設のつくりの違いを知る
☆明日の予習
↑クイズをしながら、鉄の歴史に触れる
↑すずのキーホルダーづくり
☆帰って来られる場所
はじめて来られる方も
何度も来られる方も
あり続けて
迎えてくれる人がいる
※以上はG.Wボラエコツアー2日目の様子
富田
☆サクラが咲いて散るように
ボランティア(支援の形)にも時期や状況によって
さまざま
なにが
いいのか
よくない
とかではなく
それぞれが影響しあって
関係をつくっている
どれもなくてはならないものだ
☆2012G.Wボラエコツアー
釜石がこれから
地域資源(ヒト・自然)との
交流を生かしたツアーを展開していくうえでの
基盤をつくるために
重要なモニターツアーを実施している
1日目の夕食は
いま現地にいるボランティアさんとの交流会
現地のボランティアさんの想いを知る
☆ツアーミニ情報
がっこばー
秋田県の角館にある
安藤醸造の
この漬物は絶品です
富田
3月~4月の被災地域の商品物販にご協力頂いた皆さん、ありがとうございました。
下記などで、ラベンダーポプリ50個、エコたわし90個、浜のミサンガ~環(たまき)~45個、
不死鳥ステッカー約100枚を販売することができました。
3月1日 札幌市社会福祉協議会 講演会 → 報告こちら
3月11日 札幌市民ホール「3.11メモリアルコンサート」
3月11~14日 札幌駅地下歩行空間 「さぽーとほっと基金」募金活動
3月21日 黒松内町「チェルノブイリハート」上映会&小野有五先生講演会
販売全額は提供頂いた被災地域の方へ送金済みです。
鵜住居応援セットを作りました。
「3.11メモリアルコンサート」では入場時間前をピークに、多くの方に展示コーナーも見て頂きました。
北海道に避難している方々からのメッセージが書かれた「あすへのてがみ」。
展示については こちら もご覧ください。
3月11~14日は札幌地下歩行空間にて、「NPO法人 札幌障害者活動支援センター ライフ」さんが販売を手伝ってくださいました。
右は「環境NGO ezorock」さんのパネルです。釜石ボラさんの写真も。
歩行者の方に「よろしくお願いします」と協力を求めながら・・・ありがとうございました。
ライフさんは宮城県で被災した「知的障がい者就労支援事業施設 まどか荒浜」さんからの商品も仕入れ、
クッキー、カレー、手ぬぐい、「復幸だるま」なども販売あり、沢山の方が立ち止まって購入されていました。
☆『これまで』と『これから』
↑1年をふりかえる
↑ありがとうライトエース
↑栗橋地区の拠点視察
↑養殖漁師さんが動き出している
↑都留文科大学作 ↓かまいし復興の祈りの様子
物資、募金、ボランティアさん
地域の農家さん、漁師さん、商店街の方
現地スタッフ、本部事務局
活動において、どれも欠くことができない人財
心を動かす想いの灯りを・・・・
富田
☆想いを受け止めて、行動にうつす
↑片岸地区の方々の花壇に対する想い
↑片岸漁港の牡蠣部隊の拠点
↑鵜!はまなす商店街
↑食を通じて、地域を盛り上げようとしている
立ち上がろうとしている人の熱い想いに心が揺り動き、
何かしたいと
想いを寄せてくれたり、実際に来てくれることが嬉しいから、
何かしたいと
その出逢いの場がつくれていることに感謝したい
富田
☆リアルな現実
復興が進む地域とそうじゃない地域がある
↑大槌・赤浜地区
↑鵜住居小中学校
☆想像できないことがわかった
↑根浜地区
↑釜石大観音からの海
↑片岸地区の元避難所
↑平田の仮設住宅
その場に行っても、話しを聞いても、本当に津波があったのか・・・
イメージできないことを知る
ただ、気持ちに寄り添りたいとおもった
富田
☆集う仲間 3月9日
今回のツアーの参加者の半数が釜石リピーターさん
1年間の活動を通じて、知り合うことができた釜石の方々とともに
おなじ場で
弔うために・・・
富田
私達が活動している地域に、鵜住居小学校と釜石東中学校があります。 校舎の3階まで津波が押し寄せ、今も3階の教室の窓に車が挟まったままです。 幸い子ども達は全員避難できました。(当日、休んでいた児童が亡くなっています) その校庭には 今も集積された瓦礫が巨大な山となっています。 今、他都道府県に瓦礫の処理を持ちこまないでという運動が起こっていますが・・、
被災地で遅々として進まない瓦礫の巨大な山の処理を見ていると・・、瓦礫をばら撒かないでの運動には、賛同することができません。
被災地以外で処理をしないのであれば、対案が必要だと思うのです。
現在の法律では一括処理ができません。分別しなければならないのです。分別は当該市町村だけではなかなか進みません。被災地で処理をすべきだと考えるのであれば、処理工場の建設を要求するとか・・、そのより適切な処理の対案が必要だと思うのです。 例えば、対案として、被災地に処理工場ができても未来永劫稼働はできないでしょう。時限措置として工場を作り稼働させる税金を投入することになる。
私は岩手や宮城の瓦礫は全国の処理工場で処理し、放射線量が高い福島等の瓦礫は地元に処理工場を作るのがいいと考えています。
この原発大国に今、生きてしまっているのだから・・、大きな人類の歴史の流れの中で、アホな日本人として、ある程度、運命を共同しないと、いけないかなと刹那的にもなっております。
皆さんは、どのように考えますか?
NPO法人ねおす 高木晴光
長期ボラ。伊藤Mです。
昨日、短期ボラの伊藤Nさんが来たため、ねおすスタッフの伊藤Sさんとで伊藤が3人になりました・・・。
2月5日(日)に、海鮮漬け復活イベントがありました。
「海鮮漬け」⇒釜石の山と海のおかあさんたちが10年以上前に協同開発した商品で、商品登録もあります。震災の影響もあり、長いこと作ることができていませんでした。岩手県漁業協同組合連合会長賞受賞。
朝から準備を始め、みなさんに喜んでもらおうと熱心に料理をされていました。
おかあさん達が料理をしている間、NPO法人表浜ネットワークの協力で簡単な体操と似顔絵のイベントも同時に行ないました。
みなさん楽しみながら体をほぐしていました。
こうやってみんなが集まれる機会は、とても大切ですね。
似顔絵を描いてくださったのは画家の山本炊拓也さん。真剣なまなざしです!
わぁ!そっくり!プロの力はすごいです。
そしてメインのお食事!
これが幻の海鮮漬け!つい復活です!
↓
「山と海のミルフィーユだぁ!」とつぶやきが聞こえてきました。
味は、とてもさっぱりしていて何層にも重なった食材が深みを出しています。
鮭、野菜、昆布海草がミルフィーユ状になっています。保存料、着色料、その他添加物を一切使用せず作っているため優しい味わいになっています。
質の高さ故に、手間が大変かかります。そのため、今のところイベントなどでしか食べられないのだそう。
海鮮漬けがいつでも食べられる日が来ること望んで止みません。
釜石には、全国に誇れる要素がたくさんあります。
震災によって消えつつある文化も多々あると聞いていますが、みなさんが目を向けることで文化を守り、復興につなげていくことができると思います。
県外の方も是非、釜石に足を運んではいかかでしょうか。
都留文科大学・高田教授の報告【其の五】
3 断てなかった絆
津波に巻き込まれ、死亡もしくは行方不明になった人々の多くが、家屋の中で被災している。その中でも搬出できなかった高齢者とその介護にあたっていた人が共に、津波が来ることを解っていながら被災した事例が聞かれた。Aさんの妻(56才)も早い時点で一旦は義父を置いて高台に避難するが、やはり寝たきりの義父が心配になって再び自宅に戻る。家を出たり入ったりしていたところを隣人に「危ないから上にあがって。」と声をかけられている。津波は1階天井まで浸入。遺体になって玄関前の瓦礫の下から12日になって発見される。義父は辛うじて生きて発見されるが12日の夜半に死亡。意識はほとんどなく、話しかけた時に目が動く状態であったが、Aさんから嫁が亡くなったことを伝えられると涙を流した。このように高齢者と嫁の組み合わせで両者とも亡くなった事例が4所帯で聞かれた 。[i]
親子で亡くなった事例としては、70代の母親と40代の息子が国道沿いの家で亡くなっている。また家に居たが天井まで水位が上がり、母親(80代)を娘が裏山に救出したが、山中で低体温となり亡くなっている。この地区では高齢者だけが家に居て亡くなったという事例を聞くことはなかった。「てんでんこ」とは知りつつも断ちきれなかった現実がいくつもある。
都留文科大学・高田教授の報告【其の四】
3 断たれた緊急情報
拡声器のある防災屯所から最も北に位置する7班の上部場所までは距離が約430mあり、津波が来るという拡声器の情報は聞こえてない。地震による停電によって情報は遮断され、大きな長い揺れからの個々の判断、他所にいた身内からの携帯電話等による情報、消防団の人など、人づての情報に頼って避難が行われた。
消防団OBであったDさん(64才男性)の場合、地震時は国道の側の防災屯所近くにいた。屯所のシャッターをすぐに開けて待機し、消防団員が一人来たのですぐに消防車を動かして2人で水門の閉鎖に向かう。2日前の3月9日注3に起こった地震でも津波警報が出ており、水門を閉めに行ったが、その時はたいしたこともなかったので、その時点では「今回もその程度かと、判断」してしまっていたという。 サイレンを鳴らして走ったので、防災無線は聞こえず、その後は停電で防災無線が動かなくなったので情報は全く受けていない。Dさんはその後、避難場所に戻った後、再び国道近くまで降り、そこで砂埃が上がるのと遭遇して初めて津波が来ることを実感し、引き返している。
35分という時間に、十分な情報が住民に伝わらなかったことで、一旦避難場所に避難したものの、またそこから離れたパターンが多い。
都留文科大学・高田教授の報告【其の三】
2 35分のタイムラグ
今回の津波は地震から波の到着まで約35分の時間差があり、この間に地震に対してどのような情報を得たのか、また情報がない状態でも、これまでの経験からどのような判断下したかによって、退避行動に大きな差が生じている。
地震発生当時自宅周辺にいた住民の多くは、防災計画で指定された町内5カ所の津波被害1次避難所へ移動している。この1次避難場所はいずれも海抜20mほどある高台が指定されている。
海岸沿いの平地部にあった釜石自動車学校の教習生、職員、三菱自動車のディーラーなど事業所の職員は組織的に道地沢団地や片岸稲荷神社の避難所に避難している。
釜石市内に居た住民も、この時間差を使って車で自宅に戻る時間があった。消防団に所属するAさん(59才男性)の場合、釜石の職場から片岸に帰り、防波堤の水門が先に来た地区消防団員によって閉じられたのを確認後、地区の自宅の上にある避難所、片岸公葬地(墓地)に移動している。釜石に買い物に出ていたBさん(64才女性)は一緒に出ていた女性(両石,室浜在住)と乗り合わせて帰宅。途中両石港を経由時に海水が引き始めているのを確認。室浜へ帰るのは不可能と判断し、両名は同じく片岸公葬地に避難して無事であった。
地震発生時、室浜方面へのウオーキングから帰宅後間もなく地震に遭遇したCさん(74才女性)は、自家用車で一旦避難場所に移動するが、再び毛布を自宅に取りに戻って津波に遭遇する。自宅は片岸でも最も水門近くに位置する。消防団によっていち早く閉められた水門からは既に水が溢れ出ていた。隣に住む義理の弟が「来たあ、来たあ。」と叫びながら走って来たので、慌ててJRの線路上まで斜面を駆け上る。「波が跳ねて真っ黒い水がやってきた。」という。Cさんは目前に自宅が流れ行くのを見て、一目散に線路上を水に追われ、枕木に足を取られながら逃げている。(波で線路は完全に消失している。)
釜石における津波の経験は1896年(明治29)明治三陸津波:死者6687人,1993年(昭和8)昭和三陸津波:死者183人/行方不明224人,1960年(昭和35)チリ地震津波:被害総額6億3千万円。これが語り継がれる3つの津波の経験である。1896年の後に堤防が建設され、最終的には昭和三陸津波の水位を基準に嵩上げされていたが、引き波の力で最も弱かった箇所が崩壊している。[i]この堤防の高さと、これまでの水没地点が人々の物差しであった。十分な対策がなされているという安心感が心の隅にあった。携帯電話などを通じた外からの情報の有無が35分の行動を決めている。住民の制止を「大丈夫。」と振り切って自転車で海を見に行った男性(60代)は行方不明となった。また一人暮らしであった女性(推定60代)は近所付き合いがほとんどなかったために、亡くなったのかどうかの確認が遅れ、1か月後の瓦礫撤去で家屋の下から発見されている。
普段の避難訓練に必ず出席していた人々は全て避難場所に移動して助かったという話も聞かれた。