被災地支援 -できることをやろう- から -ひとつなぎ- へ   NPO法人ねおす

『三陸ひとつなぎ自然学校』の釜石市を中心とした活動を応援しています。

お知らせ

★【2015年12月23日エルプラザ】「5年目の今、未来への挑戦」の報告会があります

う~の!商店街あづまっぺカフェOPEN!!

2012年02月19日 | 商店街支援

こんにちわ。
長期ボラの伊藤誠です。

2月17日、う~の!はまなす商店街に「あづまっぺカフェ」をOPENしました!
このカフェの目的は大きく以下の2点です。

1.鵜(う~の)!はまなす仮設商店街の活性化
2.地域のコミュニティ作り

今後、ねおすのボランティアさんで運営していく予定です。



コーヒーには、こだわりました!
都留文化大学の高田先生のご紹介で、山梨で自家焙煎をしている「バンカムツル」さんからこだわりのコーヒー豆をいただきました。
お客様に出したところ、「おいしい」「飲みやすい」「香りが良い」などとても好評でした。
「バンカムツル」さんご協力ありがとうございます。




店内の様子は、このような感じです。
1日で20人近くの人が来てくれています。




お雛様を支援していただけるという方がいて、さっそく店内に飾りました。
ひな人形も流されてしまったという人も多いでしょうから、こうして立派なものを飾れるのは嬉しい限りです。





カフェを初めて数日ですが、手ごたえを感じています。
カフェでは、商店街の商品やパン、定食を出前形式で買えるようになっています。
買える場、くつろげる場を提供することで、商店街の活性化に貢献できていると思います。
これから地域の方が集まれる企画もしていく予定。


この活動も商店街の方々とねおす釜石の信頼関係があってこそ!
地域に根ざす支援、長期的な支援の大切さを実感しています。
地域と結びつきながら、色々な人が集まれる「あづまっぺカフェ」にしていきたいです!



伊藤 誠

子どもあづまっぺ!~子ども料理教室~

2012年02月19日 | 子どもの居場所づくり

今日は子ども料理教室を地域のお母さんを先生に実施しました。

参加者は11名、保護者の方2名。

手を酢めしでいっぱいにしながら、初めての巻物に悪戦苦闘。

巻く具材はかんぴょう、さくらでんぶ、厚焼きたまごのほかに

子ども向けにウインナーやトンカツなども用意。

好きな具材を好きなように巻きました。

なかなかの出来です!

自分で巻いた巻物ですから、おいしくないわけがない!

自分が初めて巻いた巻物が「宝物だ」と満面の笑みで自慢げに見せてくれた

表情が忘れられません。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「自分もご飯を作れるようになりたい」

この企画はある子どものこの一言がきっかけで始まりました。

親御さんを亡くしている子や身近な人の「死」というものに直面した子。

「自分達でご飯を作っていかなきゃいけない。」

そんな強く生きようとする子どもたち。

楽しく食に触れながら、そんな場所をこれからも作っていきたいと思います。

 

今回の海苔は大分県のNPO法人水辺に遊ぶ会の

足利さんが送ってくださったものを使用しました。

食べる前にあぶって、食べるおいしい海苔。

貴重でおいしい海苔で巻くことができて幸せでした。

ありがとうございました。

 

柏崎

 


瓦礫の処理に思う

2012年02月16日 | 地域社会起業育成支援

私達が活動している地域に、鵜住居小学校と釜石東中学校があります。 校舎の3階まで津波が押し寄せ、今も3階の教室の窓に車が挟まったままです。 幸い子ども達は全員避難できました。(当日、休んでいた児童が亡くなっています) その校庭には 今も集積された瓦礫が巨大な山となっています。 今、他都道府県に瓦礫の処理を持ちこまないでという運動が起こっていますが・・、

 

被災地で遅々として進まない瓦礫の巨大な山の処理を見ていると・・、瓦礫をばら撒かないでの運動には、賛同することができません。

被災地以外で処理をしないのであれば、対案が必要だと思うのです。

 

現在の法律では一括処理ができません。分別しなければならないのです。分別は当該市町村だけではなかなか進みません。被災地で処理をすべきだと考えるのであれば、処理工場の建設を要求するとか・・、そのより適切な処理の対案が必要だと思うのです。 例えば、対案として、被災地に処理工場ができても未来永劫稼働はできないでしょう。時限措置として工場を作り稼働させる税金を投入することになる。

 

 私は岩手や宮城の瓦礫は全国の処理工場で処理し、放射線量が高い福島等の瓦礫は地元に処理工場を作るのがいいと考えています。

 

この原発大国に今、生きてしまっているのだから・・、大きな人類の歴史の流れの中で、アホな日本人として、ある程度、運命を共同しないと、いけないかなと刹那的にもなっております。

 

皆さんは、どのように考えますか?

 

NPO法人ねおす 高木晴光


ヨット世界の旅

2012年02月14日 | 子どもの居場所づくり

釜石市鵜住居、栗林の仮設団地に住む子どもの、学びや交流の場を作っています。

「放課後子ども教室」です。

 

先日、東京からのボランティア、伊藤さん(最近来る人伊藤ばっかり)に話をしてもらいました。

「ヨット世界の旅」

伊藤さんはヨットで色んな国をまわっている方で、ボランティアで釜石に来る前は地中海にいたとのこと。

「先週は地中海にいたんだよ」なんて台詞、言ってみたいものですね。

いい機会なので、ヨットからみた色々な国について話をしてもらいました。

 

 

 

ヨットにイルカが寄ってくるとのこと

 

子どもたちの興味をひいたのは市場の話

 

「変なかたちー!」ももが平たいんです。

 

みなさん夢中でしたね

 

とてもいい経験だったのではないかと思います。

 

こうやって、ボランティアさんの特技を生かすと多様な学びの場を作っていけますね。

またこんな機会を作っていこうと思います。

 

有原

 

 

 

 


チヨコ作り教室!

2012年02月12日 | 子どもの居場所づくり

長期ボラの伊藤誠です。

 

今日は、鵜!はまなす商店街のパン屋あんでるせん主催でチョコレート作り教室を行ないました。

仮設店舗の仕事場で20人近くの子ども達とカップチョコ、トリュフ、アレンジクッキーを作りました!

 

 

早く来た子どもには、看板を作ってもらい店前に張り出しました。

 

  

 

 

 

さぁ、チョコ作り!!

 

混ぜて~

 

 

流し込んで~

 

 

デコレーション!!

 

クッキーもチョコでアレンジ!

かわいく、きれいに思いをこめて・・・。

 

 

トリュフを丸めた手は、チョコまみれ。

「チョコ星人だぁ~~(笑」

 

 

きれいに袋につめて、大切な人にお手紙を書きました。

 

ラッピングをして、手作りチョコの完成です!

市販品には負けません!!

 

最後は、みんなでパシャ!!

「あんでるせんさん、ありがとうございました!」

 

本日は、伊藤がメインで企画、進行をさせていただき、至らない所も多々ありました。サポートをしてくれた先輩ボラ、あんでるせんさん、保護者の方々に感謝です。ありがとうございました。

子ども達は、パン屋の工房でパティシエ気分で楽しく作っていました。子どもが何かに熱中できる場所っていいですね。また新たに企画をしたいです。

教室後、参加者の方がパンを買っていったり、商店街内のお店で買い物をする人が多く、商店街でイベントをする意義を改めて感じました。商店街の活性化には、定期的なイベントがとても大切ですね!

商店街の方々もイベント企画に前向きなので、たくさんイベントをしてより明るい商店街にしていきたいです。

 

 

じょいもニッコリ、バレンタイン

「えへへっ。」

 

 

伊藤 誠


2月の放課後子ども教室は

2012年02月10日 | 子どもの居場所づくり

こんな感じのことをしております。

 

節分とはなんぞや?と考えたり

 

豆まき用に、チラシで入れ物をつくったり

 

そうそう。誰かはやると思ってたよ。

 

鬼の面を作ったり

 

正座する鬼(育ちがよい)、伊藤くんにここぞとばかりに豆をぶつけたり

 

背中に指で漢字を書いて、当てようゲームをしたり

 

なーんだ?

 

勉強が終わった人には、お友達から賞状が届いたり

 

札幌のニットカフェmiamiさんからいただいた毛糸でポンポンをつくったり

http://park16.wakwak.com/~miami/

 

 

miamiさんありがとう!

 

 

やっぱりツイスターはかかせなかったり

そんなことをしております!

 

 

12日にはチョコづくり教室、19日には料理教室が予定されています。

2月も楽しそうだ!!

 

有原

 

 

 


海鮮漬け復活!

2012年02月10日 | 地域社会起業育成支援

長期ボラ。伊藤Mです。

昨日、短期ボラの伊藤Nさんが来たため、ねおすスタッフの伊藤Sさんとで伊藤が3人になりました・・・。

 

2月5日(日)に、海鮮漬け復活イベントがありました。

「海鮮漬け」⇒釜石の山と海のおかあさんたちが10年以上前に協同開発した商品で、商品登録もあります。震災の影響もあり、長いこと作ることができていませんでした。岩手県漁業協同組合連合会長賞受賞。

 

朝から準備を始め、みなさんに喜んでもらおうと熱心に料理をされていました。

 

 

おかあさん達が料理をしている間、NPO法人表浜ネットワークの協力で簡単な体操と似顔絵のイベントも同時に行ないました。

みなさん楽しみながら体をほぐしていました。

こうやってみんなが集まれる機会は、とても大切ですね。

 

似顔絵を描いてくださったのは画家の山本炊拓也さん。真剣なまなざしです!

わぁ!そっくり!プロの力はすごいです。

 

そしてメインのお食事!

これが幻の海鮮漬け!つい復活です!

 ↓

 

「山と海のミルフィーユだぁ!」とつぶやきが聞こえてきました。

味は、とてもさっぱりしていて何層にも重なった食材が深みを出しています。

鮭、野菜、昆布海草がミルフィーユ状になっています。保存料、着色料、その他添加物を一切使用せず作っているため優しい味わいになっています。

 

質の高さ故に、手間が大変かかります。そのため、今のところイベントなどでしか食べられないのだそう。

海鮮漬けがいつでも食べられる日が来ること望んで止みません。

 

釜石には、全国に誇れる要素がたくさんあります。

震災によって消えつつある文化も多々あると聞いていますが、みなさんが目を向けることで文化を守り、復興につなげていくことができると思います。

県外の方も是非、釜石に足を運んではいかかでしょうか。


2011年度上半期 ねおす募金収支報告

2012年02月07日 | 復興プロセスの記録
支援活動へのご理解とご協力を頂き、いつもありがとうございます。
ねおす募金の収支報告を上半期についていたします。
また、釜石での活動が経産省の復興に向けたSB(ソーシャルビジネス)事例集に掲載されました。

以下のHPにアクセスし、
http://www.meti.go.jp/press/2011/01/20120113002/20120113002.html

ソーシャルビジネス・ケースブック(震災復興版)~ 被災地の復興に向けたソーシャルビジネス ~(PDF形式:4,498KB)
というファイルの中の「事例CASE 02」に「NPO法人ねおす」が掲載されています。
 
上記の掲載ページ中の「支援者等」には道内外の多くの方が含まれます。
支援活動はいくつかの助成金も組み合わせて継続していますが、
今後とも皆様からのご協力をお願い申し上げます。

今、被災地のツアーに参加してよいものか・・・

2012年02月05日 | 被災地情報

知り合いから次のような質問を受けました。

「ツアー会社が企画する被災地ツアーに誘われたのですが、このような時に物見遊山的に参加していいものでしょうか?」

私はこう思います。

 沿岸被災地は復旧から復興への道を歩んでいます。私はそろそろ観光目的でも許されるというか、行くべき時期に入っていると思います。お土産物の開発や飲食店も再開が被災地の真ん中でも始まっています。売り上げがないことには続きません。

また、瓦礫の処理受け入れが各地で話題というか、社会問題になっています。 持って行き場所がない、処理施設がない状況下で海岸のそばに巨大な山が放置されています。その山がどのようなモノかも是非直接見て頂きたい。その上で、各個人がご自身の見解を持って頂きたいと思います。

焼け野原のようになっている災害の爪痕はひとりでも多くの人が自分の目で見て実感することが必要だと思います。特に防災担当の地方行政職員には個人でも行って、実態を見てもらいたい。 海岸地域の商工会の人も地域住民も、今の被災地をひとりでも多くの方が機会があれば見てほしいと思います。

道路も問題ありません。個人のドライブ旅行でもいいと思います。

現地を見て、お土産を買って、立ち上がった食堂でご班を食べて、復旧した宿やホテルに泊まることは、復興支援となると思います。

高木晴光


4  断てなかった絆 

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の五】


3  断てなかった絆 

 津波に巻き込まれ、死亡もしくは行方不明になった人々の多くが、家屋の中で被災している。その中でも搬出できなかった高齢者とその介護にあたっていた人が共に、津波が来ることを解っていながら被災した事例が聞かれた。Aさんの妻(56才)も早い時点で一旦は義父を置いて高台に避難するが、やはり寝たきりの義父が心配になって再び自宅に戻る家を出たり入ったりしていたところを隣人に「危ないから上にあがって。」と声をかけられている。津波は1階天井まで浸入。遺体になって玄関前の瓦礫の下から12日になって発見される。義父は辛うじて生きて発見されるが12日の夜半に死亡。意識はほとんどなく、話しかけた時に目が動く状態であったが、Aさんから嫁が亡くなったことを伝えられると涙を流した。このように高齢者と嫁の組み合わせで両者とも亡くなった事例が4所帯で聞かれた 。[i] 

 親子で亡くなった事例としては、70代の母親と40代の息子が国道沿いの家で亡くなっている。また家に居たが天井まで水位が上がり、母親(80代)を娘が裏山に救出したが、山中で低体温となり亡くなっている。この地区では高齢者だけが家に居て亡くなったという事例を聞くことはなかった。「てんでんこ」とは知りつつも断ちきれなかった現実がいくつもある。 



[i]4班に集中しており、義父(80)嫁(60)/義母(80)嫁(60)娘(30)/義父(80)嫁(50)年齢は話者による推定年代


3 断たれた緊急情報

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の四】


3 断たれた緊急情報

 拡声器のある防災屯所から最も北に位置する7班の上部場所までは距離が約430mあり、津波が来るという拡声器の情報は聞こえてない。地震による停電によって情報は遮断され、大きな長い揺れからの個々の判断、他所にいた身内からの携帯電話等による情報、消防団の人など、人づての情報に頼って避難が行われた。

 消防団OBであったDさん(64才男性)の場合、地震時は国道の側の防災屯所近くにいた。屯所のシャッターをすぐに開けて待機し、消防団員が一人来たのですぐに消防車を動かして2人で水門の閉鎖に向かう。2日前の3月9日注3に起こった地震でも津波警報が出ており、水門を閉めに行ったが、その時はたいしたこともなかったので、その時点では「今回もその程度かと、判断」してしまっていたという。 サイレンを鳴らして走ったので、防災無線は聞こえず、その後は停電で防災無線が動かなくなったので情報は全く受けていない。Dさんはその後、避難場所に戻った後、再び国道近くまで降り、そこで砂埃が上がるのと遭遇して初めて津波が来ることを実感し、引き返している。

 35分という時間に、十分な情報が住民に伝わらなかったことで、一旦避難場所に避難したものの、またそこから離れたパターンが多い。 


 


2 35分のタイムラグ

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の三】


2 35分のタイムラグ

 今回の津波は地震から波の到着まで約35分の時間差があり、この間に地震に対してどのような情報を得たのか、また情報がない状態でも、これまでの経験からどのような判断下したかによって、退避行動に大きな差が生じている。

 地震発生当時自宅周辺にいた住民の多くは、防災計画で指定された町内5カ所の津波被害1次避難所へ移動している。この1次避難場所はいずれも海抜20mほどある高台が指定されている。

 海岸沿いの平地部にあった釜石自動車学校の教習生、職員、三菱自動車のディーラーなど事業所の職員は組織的に道地沢団地や片岸稲荷神社の避難所に避難している。

 釜石市内に居た住民も、この時間差を使って車で自宅に戻る時間があった。消防団に所属するAさん(59才男性)の場合、釜石の職場から片岸に帰り、防波堤の水門が先に来た地区消防団員によって閉じられたのを確認後、地区の自宅の上にある避難所、片岸公葬地(墓地)に移動している。釜石に買い物に出ていたBさん(64才女性)は一緒に出ていた女性(両石,室浜在住)と乗り合わせて帰宅。途中両石港を経由時に海水が引き始めているのを確認。室浜へ帰るのは不可能と判断し、両名は同じく片岸公葬地に避難して無事であった。

 地震発生時、室浜方面へのウオーキングから帰宅後間もなく地震に遭遇したCさん(74才女性)は、自家用車で一旦避難場所に移動するが、再び毛布を自宅に取りに戻って津波に遭遇する。自宅は片岸でも最も水門近くに位置する。消防団によっていち早く閉められた水門からは既に水が溢れ出ていた。隣に住む義理の弟が「来たあ、来たあ。」と叫びながら走って来たので、慌ててJRの線路上まで斜面を駆け上る。「波が跳ねて真っ黒い水がやってきた。」という。Cさんは目前に自宅が流れ行くのを見て、一目散に線路上を水に追われ、枕木に足を取られながら逃げている。(波で線路は完全に消失している。)

 釜石における津波の経験は1896年(明治29)明治三陸津波:死者6687,1993年(昭和8)昭和三陸津波:死者183人/行方不明224,1960年(昭和35)チリ地震津波:被害総額6億3千万円。これが語り継がれる3つの津波の経験である。1896年の後に堤防が建設され、最終的には昭和三陸津波の水位を基準に嵩上げされていたが、引き波の力で最も弱かった箇所が崩壊している。[i]この堤防の高さと、これまでの水没地点が人々の物差しであった。十分な対策がなされているという安心感が心の隅にあった。携帯電話などを通じた外からの情報の有無が35分の行動を決めている。住民の制止を「大丈夫。」と振り切って自転車で海を見に行った男性(60代)は行方不明となった。また一人暮らしであった女性(推定60代)は近所付き合いがほとんどなかったために、亡くなったのかどうかの確認が遅れ、1か月後の瓦礫撤去で家屋の下から発見されている。

 普段の避難訓練に必ず出席していた人々は全て避難場所に移動して助かったという話も聞かれた。



[i]1961年にチリ津波の復旧工事に来た技術者(69才男性)は、1984年に住居を構える。その判断基準が昭和三陸津波を想定した堤防の高さにあった。情報はこの話者による。


1 被害の概要

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の弐】


1 被害の概要

 釜石市片岸町はJR釜石駅を起点として45号線を約10km、車で約20分大槌方面に進むと鵜住居川河口に達する。河口より左岸北へ約1km続く海岸に沿いの集落である。鵜住居川は河口部で大きく右に曲がり、右岸は根浜海岸に沿って対岸に達する砂州(行政地割は鵜住居町)を形成していたが、現在は消失している。

  片岸町の集落は、鵜住居河口部、高台に造成された団地、3つの沢、そして45号線に沿った平地部分にあり、自治会は10班に分かれている。

 気象庁発表によると1446分に地震が発生,震源地は 三陸沖,   マグニチュード 8.8  ,深さ約20km。釜石市は震度6強。釜石市沿岸に最大の津波が達した時刻は1521分である。[i] 片岸町町内会の死亡/行方不明者は30[ii]。片岸町のある行政区である広域の鵜住居地区は人口6630人中、死亡者/行方不明586人。釜石市全体の死亡者/行方不明者が39,996 人 中937[iii]であるから死亡者全体の約62 %が鵜住居地区に集中している。(20112月住民基本台帳) 片岸地区の家屋は標高約15mあたりの家屋まで床上浸水しており、それより下方は全壊または流失した家屋が多い。



[i]津波情報(津波観測に関する情報)平成23年 3月12日19時39分 気象庁発表http://www.jma.go.jp/jp/tsunami/observation_04_20110312193944.html2012,1,23閲覧)

[ii]片岸町自治会による調査データ

[iii]釜石市 復興まちづくり委員会第1回 資料 被災状況及び取組み状況について 

http://www.city.kamaishi.iwate.jp/index.cfm/10,17683,c,html/17683/20110830-120021.pdf2012,123閲覧)


3.11 ―釜石市片岸町の記憶,津波前後 ― 

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

都留文科大学・高田教授の報告【其の壱】

3.11 釜石市片岸町の記憶,津波前後  

 

 20111218日~21,北海道のNPO法人「ねおす」栗橋ボランティアセンターの依頼により、釜石市鵜住居地区、片岸町における震災被害について聴き取り調査を実施した。調査目的は地域の共有財産として記録すること。そして北海道庁の防災対策事業の一環として、津波被害の詳細な記録を防災計画に活かすことにある。

 調査対象は、片岸町内会188所帯(室浜を除く)を7ブロックに分け、住居の被災により避難所生活をされている世帯、被災を免れて集落に残っておられた世帯を抽出し、13世帯18人に対して行った。(平地のブロックは全戸被災している)調査者は環境・コミュニティ創造専攻から田中夏子,高田研。そして専攻4年生畑中健志,北海道大学大学院に進学している専攻1期生、村木伊織の4名で実施した。

 本報告では高田の聴き取った6世帯10名からの情報を元に、津波前後の避難/被災の状況について、その概要を報告する


都留文科大学・高田教授の報告

2012年02月04日 | 地域社会起業育成支援

これから連続投稿にて、

被災地支援活動で大変お世話になっている

都留文科大学高田教授の報告をさせていただきます。


経緯は以下の通りです(2011年12月5日の当ブログの記事抜粋)

「これまでの支援活動の中で被災者からいろいろなお話をボランティアスタッフはお聞きしてきました。しかし、まとまったお話をじっくりとお聞きする機会はこれまではありませんでした。 北海道の新しい公共の活動の一環として、この冬体系的に聞き取り活動を行います。発災から2週間程度を想定して、被災地は主として、ねおすスタッフの柏崎の実家がある(あった)壊滅的な被害を受けた片岸地区、その避難者を受け入れた栗林地区、そして被災地の消防団などです。どのような状況下で人々は避難をしたのか、どのような支援があったのか、初期の被災地の様子をお聞きし、今後の災害に備える資料を作ってゆきます。」

以下、本報告の高田教授からのコメントです。

「現在,調査の詳細な報告を作成中である。本稿は本誌のために津波前後の記録を切り出してまとめたものである。調査では地震から9ヶ月,悲しみの底から立ち上がろうとされている方々から、思い出したくない当時を想起してもらうことになった。この悲しみを後世の学びとするため、報告の作成に最後まで尽力していきたい。」