昨日から調子が悪い。
ボクには知らなかった兄弟がいて、その子は亡くなっている。
8月15日がその子の亡くなった日ということが最近わかった。
いわゆる流れた子供なので、最近まで隠されていて、なぜか数年前に自殺未遂をしたボクの「自尊心」を向上させるという目的で書かれた両親からの、父からの手紙の中に、兄弟がいた事実が一番最初に書かれていた。それを読んだ直後から調子を大幅に狂わせた。
その子供が流れなかったらボクはこの世に生まれていない。なぜなら妊娠期間がダブっているからだ。死亡とボクの妊娠は3ヶ月しか違わない。
この事実を知ってからボクはこの亡くなった子供の記念会を家族みんなですることを強く主張した。ボクの感覚からすれば、その子供の死なしに自分の存在はないし、その子が存在すれば自分はこの世にはいなかった。自分の影のような存在であり、もう片方の自分に思える。
そして何よりも「隠されていた」ことが問題だった。
自殺もそうであるが、ひとりで死ぬということ、家族に看取られないで死ぬということが如何に残酷であろうか。その子は流れたままで、葬儀さえ出されていない。法律上3ヶ月以前に流れた場合には、死亡届が必要でない。
「隠されていた死」なので両親の腰は引けている。
その子の法事・記念会を8月15日前後にする予定であったが、兄弟が仕事で集まることができない。それで両親は兄弟なしで法事を済ませようとした。そのことにボクは切れた。
その子の葬式ともいえる法事で、兄弟が参加することなく済ますなど、「隠された死」のままではないかと。
社会派の父はアジアの民衆に対する戦争責任などについてはうるさくボクら兄弟を教育し、8月15日には東京九段の千鳥が淵戦没者慰霊記念碑に朝早くから連れて行かれた。
その8月15日に自分の子供が亡くなっているというのに、いまの今まで葬儀も法事もしてこなかった。
昨日、そのことに文句を言ったのだが、ボクの興奮は正常な興奮なのだろうか?それとも双極性障害的な異常な興奮なのだろうか?
それよりも父自体が自分の子供の命日さえ記念できないことに、家族として扱うことができないことに、ボクは異常さを感じる。
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