一昨日の書き込みは、なんだかよく判らなかった人もいるかもしれない。
古い友達が、というか後輩的な友達が自殺した。
自分も自殺未遂を繰り返しているから、気持ちはよく判る。ある種の渦に飲み込まれるように、自殺のときの心理は「もうそれ以外方法がない」「これが周囲にとっても最良の選択だ」という考えが起る。「もう疲れた」「自分は一生分もう十分生きた」「これ以上何をすればいいっていうんだ」そんな気持ちもある。
「これが周囲にとって最良の選択だ(周囲にこれ以上迷惑をかけたくない)」というのは、意外に的を射ていることがある。というより本人の気持ちも生きると死ぬとの間で揺れているように、家族自身もその深層心理では「支えたい」という気持ちと「逃げ出したい(いなくなったらいい)」という両方の気持ちがある。つまり追い詰められた人間はそのネガティブな側面を繊細に感じ取っているし、渦によってその感情は肥大化する(認知心理学の下園氏は太古の集団を守る自己犠牲本能の間違った発動とするが、果たして動物集団行動学的にどうして現代の自殺が単純に間違った発動と言いきれるのだろうか?社会心理学的にも無理がある気がする)。
自殺あるいは希死念慮は確かにうつ病やうつ状態に誰でも起る現象である。ただこれを実行に移すには大きな力、あるいは悪魔のような静かな力が必要だ。自殺者の中には自殺と未遂の狭間のなかで結果的に死んでしまう人もいるし、先ほどいったような悪魔のような静かな力によって冷静かつ確実に自殺を執行する者がいる。
ボクの友人はどちらかというと後者の方だろう。
もし自殺が精神疾患によるものだとすれば、それは援助が必要だし適切な治療が必要である。ただボク自身経験しているが、自殺をすると診療拒否にあったりすることがある。これはこれでかなり堪える。自分で診られないのならば別の医者や病院を紹介すべきだと思う。
双極性障害には多かれ少なかれ自殺が付きまとう。良くも悪くも自分を客観的に認識できる時期が存在するからだ。またボクの様に躁とうつの混合状態が多い場合は自殺の可能性が高まる。
NHKや厚生労働省は「自殺対策」と言い続けているが、その現場である精神科クリニックでは日々自殺未遂者の診療拒否が続いている。ほんとうにボクらのいくことのできる病院なんてそんなに沢山あるんだろうか?
ユング派のジェームス・ヒルマンの著書で「自殺と魂」という有名な本がある。この本は自殺をたんなる精神疾患と考え抑制すべき病・悪とするのではなく、魂の苦悩と考えその衝動自体を否定しない。結局は自殺衝動も魂の叫びであるのだと思う。そしてそれは深層心理的にイニシエーションとしての死を経験できたならば、新たな生へと転じていく。ただこのとき聞き手、或いは同伴者・導き手が必要である。
もちろん、民俗学的なイニシエーションでときどき若者が死んでしまうのと同じように、魂の死のイニシエーションでほんとうに現実の身体を失ってしまう人、身体の一部を失ってしまう人もいる。
北山修氏のいう「自虐的世話役」や内海健氏の双極性2型障害病前性格からいえば、一生懸命周りに尽くして無理をして、いったん自分に限界が来たときには「潔く去る」というのが日本の美意識なのかもしれない。
でも一生懸命やってきたんだから、周りに迷惑をかけたっていいじゃないか。そこで自分だけかっこつけて死んで行かなくたっていいじゃないかとも思う。
じゃなきゃ、いまのボクなんてどうなるんだ?
もうちょっとしがみつけよ。本当に死ななくたっていいじゃん。魂の死のイニシエーションで今を越えてけよ。不格好でも生きろよ。ばか。
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