bowbowのゆううつ~Returns

双極性障害Ⅱ型(躁うつ病)サバイバー&共生模索中のbowbowの日常。

茨城県産ミニトマト。

2011-08-31 18:29:51 | 日記

散歩帰りに寄ったスーパーの野菜売り場で二種類のミニトマトがあって、なぜか一方だけが残っていた。

近くにいって見ると愛知県産ミニトマトと茨城県産ミニトマトだった。確かに値段は茨城県産が高いのだが、量も質も明らかによい。完熟だ。なのに人気のない茨城産。

買う人の気持ちは判らないでもない。小さな子供連れの人たちだってたくさんいる。

「えぇい!! だったらボクが買ってやろうじゃないか!!!」

ミニトマトまだあるんだけど、買ってきてしまった。

何にしても日本は大変なことになってしまった。

けれど元茨城県人。ボクは子供いないし北茨城産だっていわき産だって福島産だって買い続けます。


双極性障害の「申し訳ない」きもち。

2011-08-30 15:30:23 | 双極性障害・躁うつ病

いまだ過眠続行中である。

今朝まだボクが寝ているあいだ、以前の仕事関係の友人の方から宅急便が届いた。

双極性障害というのは1型にしても2型にしても、病気悪化のとき人間関係に問題が生じる。ボク自身、自殺未遂も行っているし、暴言も暴力も病気に伴っている。従って家族関係はいまだ修復されていない。

加藤忠史氏や水島広子氏の言い方でいえば、こうした対人関係は「病状」であり、脳内物質のバランスが歪んだ状況下で起こる。古い言い方だと「循環気質」などという分け方もあるのだが、薬で予防しなければ躁とうつの循環がよくも悪くも訪れる。

実際、薬だけでも十分に病状を抑えられないこともあるのだからやっかいである。

専門家たちは「病状」であり「病気」なのだからその脳の異常が出ているときの出来事は「免責」にすべきだと語る。

けれどそれではそうしたやっかいを被った周囲の人たちが「免責」と思えるかといえば、ボクの周囲を含めてそんなに簡単ではない。

そして患者本人たちも多少の健忘はあったとしても、異常な状態の自分をきちんと覚えている。だから双極性障害患者にはある種の「申し訳なさ」がつきまとう。そしてあまりにもその感情が強い人や失ったものが大きい人は「自殺」へと向かってしまう。双極性障害の異常ともいえる自殺率は躁とうつの混合状態のせいもあるが、以上の「申し訳なさ」や「欠落感」によるものが大きいのだと思う。

宅急便は明らかにボクの誕生日に合わせて送ってくれたものだ。

「ありがたい」気持ちと同時に期待に添うことのできない状況の自分に「申し訳ない」気持ちも起こってくる。

しかし病気になってしまったのはもう変えることはできないのだ。遺伝要因にしろ環境要因にしろ、結果的にバランスの崩れやすい脳になってしまったことは確かなのだ。なんにしてもこれとつきあっていくほかはない。

V.フランクルは「夜と霧」のたしか裏表紙にニーチェの「苦難が問題ではないのだ。問題なのは苦難に意味がないことである。」という言葉を引用していた。結局、自分の病に「なぜ自分に・・・」と意味を問うているうちには何の解決もないのだろう。

一方でフランクルは「我々が人生を問うのではない。我々が人生から問われているのだ。」と言った。一見意味不明のこのパラドクスに大きなヒントがあるように思う。

「申し訳なさ」や「欠落感」や「絶望」は自分が「なぜ」と人生を問うていて、見返りがあることを「当然」と考えているのだろう。

「今」が自分を問うているなら、その「今」を良くても悪くても懸命に生きるほかはない。


風景が浮かぶ唄~「Heart to Heart」槇原敬之。

2011-08-29 14:28:30 | 日記

唄を作るときに、「詞先」「曲先」ということばがある。

多くのミュージシャンは「曲先」でメロディーの方が先にできていて、そのメロディーに詞をつけていくという形を取る。作詞・作曲が別であるがこのやり方の秀作が「なだそうそう」だと思う。森山良子に曲を作ると約束していたBeginは曲を先に作り、そのメロディーに「なだそうそう(涙ぽろぽろ)」という題名をつけて森山に渡した。それに応える形で森山が作ったのが「なだそうそう」の詞である。

槇原敬之はミュージシャンとしてはマイノリティーの「詞先」である。これは彼が高校生の頃に曲を作り始めたときから自然とそうなったことをどこかで語っていた。同じ「詞先」のさだまさしは以前「詞はすでメロディーを持っている」と語っていた。どちらが正しいということはないが、秀逸な唄は「メロディーはすでに詞を持って」おり、「詞はすでにメロディーをもっている」のかもしれない。

僕が槇原敬之を評価するのは、YMO世代のアレンジ力もあるが、詞とメロディーの調和性、またとくに唄が風景を蘇らせることである。

人間おなじ経験をしながら人生を過ごすわけではないが、多かれ少なかれ同じような風景や思春期や心のひだを持っているように思える。そのひだに唄が心地よく触れたときに、ときに懐かしくときに切なくなる。自分の実際のこころの風景と唄が重なっていく。

自分はことばを仕事としていた人間だが、結局目指していたのは相手に自分の考えを説得することではなく、相手に自分のイメージを伝えることであった。それは乱暴なかたちで相手の心に踏みいるのではなく、相手が自分と同じように持っている心のひだに、自分のことばを遠慮がちに提供するに過ぎない。そして僕にとっての満足は相手の中で相手の個の風景が蘇ることであって、自分の言葉が残ることではない。

槇原敬之のニューアルバム「Heart to Heart」はその意味では彼のそうした原点が見える秀作だと思う。

もちろん、3・11後に作られたアルバムとしてのミュージシャンとしての使命や主張、また性的マイノリティーとしての槇原自身の主張もある。そうしたことを人々がどう評価するかは異なってくるだろう。また美輪明宏の影響も大きい。

そうしたことを差し引いても、彼の人の心の風景を蘇らせることばとメロディーは本当に才能というものを感じる。


過眠傾向継続中・・・。

2011-08-27 15:40:18 | 双極性障害・躁うつ病

せっっかく今日は久々にまともな時間(7時半)位に起きたのに、10時くらいから眠気がひどくて昼寝をしてしまった。

明らかにうつ傾向に移行していて、処方自体にはうつへの対策の薬が含まれているのだが(セロクエル)、過眠が収まらない。

もしかしたら、寝るために飲んでいるヒルナミンが今の状態には少し強すぎるのかもしれない。

過眠が多いと、人間らしい生活を営むことが難しくなる。

もちろん一方でそれは必要だから起こっているのかもしれないが。

 

関係ないが、昨日楽天が勝って、楽天カードポイントが2倍になったので、CDを買った。

ポイントを使って買ったから少し安いのだが、楽天ポイントは得をしているのだか損をしているのだかよくわからない。

暇だから毎日楽天ツールバーで検索してポイントを稼ぐのだが・・・。

マーケティングとしてはなるべく楽天で買うというシステムにこっちが組み入れられている。

ミクシィも似たマーケティングの感じだが、どうもあの距離感が好きになれない。確かにフェイスブックの方がよっぽど潔い気がする。


スマートフォン・ブームに思う・・・。

2011-08-26 17:05:43 | 日記

自分がスマートフォンを使い出したのは、たぶん5年位前だったと思う。NokiaのN71(Vodafone804NK)であった。

当時のスマートフォンは今のようにスペックは高くなかったが、PCとの連携とやはり販売アプリと、そして魅力であったのがフリーのアプリが多くあったことだ。

基軸ソフトはSymbian OSというソフトである程度、開発ソフトが公開されていたのだと思う。

ヨーロッパを中心としてNokiaのスマートフォンは決して小さい市場ではなく一時期にはシンビアンOSは結構メジャーであった。auがスマートフォンにスカイプをつけたと日本で大騒ぎしていたが、すでにヨーロッパではスカイプのアプリはどのスマートフォンにも付いていたと思う。

もちろん、一部のPC好きとPC連動の仕事用に活用されていたスマートフォンが一気に市民権を得たのはiPhoneであることはいうまでもない。

N71のあとNokiaはガラパゴスの日本市場から数年前撤退してしまう。

仕方がないのでネットで海外から日本仕様で発売予定であったというN78を買った。WLANまで付いているのだからほぼPCと同じだ。

たぶんスマートフォン戦国時代になって、むしろ戦いやすくなったNokiaは再び日本に上陸するだろう。

ソフトとブランド力でどこまでアップルがスマートフォンを牽引できるか、それに対してGoogleAndoroidがどこまで立ち向かえるか、たぶんこれからの5年で日本のスマートフォン市場は大きく変動するだろう。

ただ一番心配なのが日本の端末メーカーの開発力である。護送船団方式のガラパゴス市場の悪い面がDAP(ipod・MP3)のときに露わになった。結局日本のオーディオメーカーは開発力の面でも値段の面でもアップルと韓国に完敗した。日本のオーディオメーカーの沈滞の一番の原因はそこであったと思う。ソニーでさえ自社の音声圧縮形式に拘り、結果的に後追いになってしまった。

そうでなくても名門といわれたSanyo鳥取が京セラになってしまったように、どんどん携帯端末事業部が縮小してしまうのではないか?

オーディオと同じ轍を踏まないことを願う。