いまだ過眠続行中である。
今朝まだボクが寝ているあいだ、以前の仕事関係の友人の方から宅急便が届いた。
双極性障害というのは1型にしても2型にしても、病気悪化のとき人間関係に問題が生じる。ボク自身、自殺未遂も行っているし、暴言も暴力も病気に伴っている。従って家族関係はいまだ修復されていない。
加藤忠史氏や水島広子氏の言い方でいえば、こうした対人関係は「病状」であり、脳内物質のバランスが歪んだ状況下で起こる。古い言い方だと「循環気質」などという分け方もあるのだが、薬で予防しなければ躁とうつの循環がよくも悪くも訪れる。
実際、薬だけでも十分に病状を抑えられないこともあるのだからやっかいである。
専門家たちは「病状」であり「病気」なのだからその脳の異常が出ているときの出来事は「免責」にすべきだと語る。
けれどそれではそうしたやっかいを被った周囲の人たちが「免責」と思えるかといえば、ボクの周囲を含めてそんなに簡単ではない。
そして患者本人たちも多少の健忘はあったとしても、異常な状態の自分をきちんと覚えている。だから双極性障害患者にはある種の「申し訳なさ」がつきまとう。そしてあまりにもその感情が強い人や失ったものが大きい人は「自殺」へと向かってしまう。双極性障害の異常ともいえる自殺率は躁とうつの混合状態のせいもあるが、以上の「申し訳なさ」や「欠落感」によるものが大きいのだと思う。
宅急便は明らかにボクの誕生日に合わせて送ってくれたものだ。
「ありがたい」気持ちと同時に期待に添うことのできない状況の自分に「申し訳ない」気持ちも起こってくる。
しかし病気になってしまったのはもう変えることはできないのだ。遺伝要因にしろ環境要因にしろ、結果的にバランスの崩れやすい脳になってしまったことは確かなのだ。なんにしてもこれとつきあっていくほかはない。
V.フランクルは「夜と霧」のたしか裏表紙にニーチェの「苦難が問題ではないのだ。問題なのは苦難に意味がないことである。」という言葉を引用していた。結局、自分の病に「なぜ自分に・・・」と意味を問うているうちには何の解決もないのだろう。
一方でフランクルは「我々が人生を問うのではない。我々が人生から問われているのだ。」と言った。一見意味不明のこのパラドクスに大きなヒントがあるように思う。
「申し訳なさ」や「欠落感」や「絶望」は自分が「なぜ」と人生を問うていて、見返りがあることを「当然」と考えているのだろう。
「今」が自分を問うているなら、その「今」を良くても悪くても懸命に生きるほかはない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます