唄を作るときに、「詞先」「曲先」ということばがある。
多くのミュージシャンは「曲先」でメロディーの方が先にできていて、そのメロディーに詞をつけていくという形を取る。作詞・作曲が別であるがこのやり方の秀作が「なだそうそう」だと思う。森山良子に曲を作ると約束していたBeginは曲を先に作り、そのメロディーに「なだそうそう(涙ぽろぽろ)」という題名をつけて森山に渡した。それに応える形で森山が作ったのが「なだそうそう」の詞である。
槇原敬之はミュージシャンとしてはマイノリティーの「詞先」である。これは彼が高校生の頃に曲を作り始めたときから自然とそうなったことをどこかで語っていた。同じ「詞先」のさだまさしは以前「詞はすでメロディーを持っている」と語っていた。どちらが正しいということはないが、秀逸な唄は「メロディーはすでに詞を持って」おり、「詞はすでにメロディーをもっている」のかもしれない。
僕が槇原敬之を評価するのは、YMO世代のアレンジ力もあるが、詞とメロディーの調和性、またとくに唄が風景を蘇らせることである。
人間おなじ経験をしながら人生を過ごすわけではないが、多かれ少なかれ同じような風景や思春期や心のひだを持っているように思える。そのひだに唄が心地よく触れたときに、ときに懐かしくときに切なくなる。自分の実際のこころの風景と唄が重なっていく。
自分はことばを仕事としていた人間だが、結局目指していたのは相手に自分の考えを説得することではなく、相手に自分のイメージを伝えることであった。それは乱暴なかたちで相手の心に踏みいるのではなく、相手が自分と同じように持っている心のひだに、自分のことばを遠慮がちに提供するに過ぎない。そして僕にとっての満足は相手の中で相手の個の風景が蘇ることであって、自分の言葉が残ることではない。
槇原敬之のニューアルバム「Heart to Heart」はその意味では彼のそうした原点が見える秀作だと思う。
もちろん、3・11後に作られたアルバムとしてのミュージシャンとしての使命や主張、また性的マイノリティーとしての槇原自身の主張もある。そうしたことを人々がどう評価するかは異なってくるだろう。また美輪明宏の影響も大きい。
そうしたことを差し引いても、彼の人の心の風景を蘇らせることばとメロディーは本当に才能というものを感じる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます