結局、Netbookは新しいものを買った。3万ちょっとだった。
最初にPCを始めたのは、某国立大学研究所員だったずいぶん年上の友人から、「これからの人はPCくらいできなきゃいかん」といわれて、某研究所の減価償却が終わったNECのPC9800と8インチのフロッピーディスクドライブとドットインパクトのプリンタのセットをもらった。伝説の一太郎Ver.3は本当に小気味のよい変換で、いくら一太郎(Atok)が進化しても、文章打ちとしてはあれ以上のしっくりさはいまだ経験していない。
次にやはりMS-DOS系のEpsonのノートパソコンを奨学金で買いにいった。いまだバッタヤだったソフマップでたぶんリース切れの中古を買った。一緒に買いにいった友人とアキバで記念写真まで撮ってしまった。
結婚してから世の中にインターネットというものが流行りだし、ディスクトップのPCを夫婦で買いに行った。
PCはいつかは壊れるもので、壊れたときにデジタルだと本当にきれいに壊れてしまう。壊れ方によっては残存などない。
いつの時代も何を所有するのか所有しないのか、みんな必死になっている。
一時期、「勝ち組」「負け組」などという言葉があったが、まさに何を所有しているかにみんな右往左往する。
双極性障害もそうした「所有」と「喪失」によって病状を大きく波立たせる病気なのだと思う。「所有感」と「喪失感」の病気といってもいい。躁状態にはいわゆる「万能感」が伴う(残念ながら2型なのでそんなに万能感はない)。うつ状態のときには自分が何もかももっていない気分がして、「生きていること自体、申し訳ない」という気分になる。
残念ながら家族も元気だった頃を標準にするので、「失われてしまった家族」をうまく認めることができない。これも「所有」と「喪失」の問題だと思う。
人間、いつかは決定的に失われるのであって、所有と喪失は人間の遺伝子に組み込まれた一部である。
村上春樹の「海辺のカフカ」に一冊の本もない図書館が出てくる。此岸ではこの図書館もたくさんの本を所蔵していたが、彼岸ではこの図書館は一冊の本もない。
病気を引き受けるとは、失われていく自分を引き受けることで、それを自然なこととして引き受けられるかは本人や状況によってことなる。しかし苦難にしろ、病気にしろ、喪失にしろ、本来ボクらにもともとある属性なのだと思う。
とは判っていても引き受けることはそう簡単ではない。
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