自殺者の心理は専門家からはいろいろと言われている。
生と死のあいだで必ず揺れているとか、犠牲型だとか復讐型だとかいろんなことが言われる。
けれど自殺する本人から言わせれば、すべての自殺に共通していることは「存在の不必要さ」という認識である。
「生きることを周囲から望まれていない」「自分が生きることが周囲に迷惑をかける」「存在が不要ならば”死”という形で自分を他者に刻む」という具合に本人の認識は歪んでいく。池田小の事件とか秋葉原の事件とかはある意味では劇場型自殺といっていいと思う。もちろん、それが正しいことだとは思わない。ただ実際に彼らの存在は我々に深く刻まれている。
うつ病的な傾向によって自殺は促進される訳だが、一方でいまの世の中で確かに間違ってはいない認識は「自分が必要とされていない」「存在の不必要さ」という現実が容易に起ることである。
たとえば契約社員を考えても、会社の都合で非常に必要とされたり、不況下にある日突然不必要とされたりする。契約社員は経理上は資材と同じで、人件費として計上されない。部品でしかない。
そうしたことは契約社員に限らず、多くの大人も子供も感じているのではないだろうか?
だから精神疾患等の影響があったとして、「存在の不必要さ」という認知は案外日本社会全体として、こどもから老人に至るまで共感があるのではないだろうか。
もし自殺を思い留めさせる何かがあるとすれば、相手が「必要な人間である」という一点に絞るほかない。それは単純な社会的な必要でも合理的な必要性でもなく、変な言い方だが根拠なく「あなたが存在することは自分にとって大事だ」ということを伝えるほかない。
合理性の中の存在意義では、日本社会全体が感じているように、この世に思いを留めさせる何かなどないのだ。というより、「潔く去った方が皆のため」という思いを抱かせる要素の方がよっぽど多い。
たいがい、自殺者を目の前にする家族は根拠なく存在の必要性を語ることができない。それは家族自身も自殺者に巻き込まれてしまっているし、一方で世の中的な合理的な価値観が家族の中にも侵入しているからだ。
精神病を家族にもったことを多くは恥じているし、対面的に不都合であるとも思っている。そうしたところに「生きて欲しい」という家族のことばが、真に自殺者に本心として感じられない背景がある。
もしほんとうに生きて欲しいならば、周囲は根拠なく自殺者の存在を肯定し、世間体など考えないことが意外と大事なことであると思う。
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