いわきアッセンブリー教会ブログ 

恵みをシェアするブログ

真に信じるべきこと

2019-05-17 | 日記

私は高卒だが、世の中は学歴で人を判断する人が多くいることを知っています。

こういうものは他にも言えるのでしょう。家柄、出身地、国、、、。他にも多くのことが言えるのでしょう。

このような基準で、多くの人々が傷つき、いのち(存在)をも肯定できないような人生になっている人もいます。

私もこういう偽りの言葉に何度も傷ついてきたので、そういう人々には適当に答え、信頼しないようにしてきました。

そういう中で、自分が高卒だろうが、貧乏であっても、「自分が本当に愛され、大切な存在と知ったとき」、その偽りの言葉に
だまされたり、傷つくことが少なくなって行ったという経験があります。

これからも自分らしく、他者と比べることなく、自分の使命を全うして行けたらと思います。

一人一人が尊い存在

2019-04-02 | 日記
「令和」。新時代が始まる。

 「一人一人が花を咲かせることができる社会になってほしい」、という思いが込められているとか。

どんな社会にならなければならないのだろうか。未来の人が花を咲かすことができる社会になるために
私は何をすべきなのか。

一人一人がそれぞれの花を咲かせられる社会。どんな花も大切にされる社会。

共に泣き、共に喜ぶ

2019-03-02 | 日記

未曾有の大震災からまもなく8年を迎えようとしています。

この8年を振り返り、失うことの悲しみと痛みの中で、人の優しさや犠牲に触れ、
多くの人々との絆によって励まされ、支えられてきた時と言えるのでしょう。

私たちは一人ひとり弱い存在であり、
助け、励まし合う人がどれだけ必要で大切なのかを知ったのです。

昨日、新天皇のおことばの中で「国民に寄り添い、共に泣き、共に喜ぶ」天皇としての務めを果たして行きたいということを語られていました。

何かがあったとき、そこに誰かがいて、あなたの苦しみや痛みに自分のこととして泣き、また喜ぶ人が必要なのです。

そして私たち一人ひとりも、誰かに寄り添い、共に泣き、共に喜ぶことを実践できたら、
「豊かさ」「平和」「希望」「愛」に満ち溢れたものになって行けるのではないでしょうか。

この人間としての本質的事柄も忘れてはならないと思う。

かけがえのない存在

2019-02-12 | 日記

14日はバレンタイン。若かりし頃を思い返し、いろいろと記憶がよみがえってきます。

この日をワクワクしている人も、そうでない人でも、実は、すべての人にとって大切な日なのだと思います。

自分も、そして他のすべての人が、「愛されるために生まれてきた」ということを思える日。
そういうことに気づく日であってほしい切に願っています。


世の中を見ると、
存在を肯定するよりも、否定されないようにと、不安で怯えている人。だから、人と同じに合わせて歩む人が多いように思います。

ある人は、自分の存在自体を肯定できずに、生きることをあきらめてしまい、自死してしまうまで追い詰められてしまう人もいます。
その時の状況や自分自身が考えたり、思っていることを絶対化してはならないのです。
状況は変わります。そして、偽りの言葉にだまされてはいけません。

死にたくなることは、多くの人が経験することだと言われています。
しかし、世の中を変えたり、大きな影響を与えたりしている人の多くに「死にたい」と思うまでに追い詰められ、
そこから再起したという話はよくあることなのです。

田原米子さんという方もその一人でしょう。
一度は電車に身を投げて、自殺を図ったけれども、その後、多くの人々に「人は希望によって歩むことができる」ことを伝えた人であります。




あなたのいのちは尊く、あなた自身がそう思えるほどに、実は、愛されている存在であるということに気づいてほしいと思うのです。
バレンタインの日が、煩わしい人間関係に嫌になったり、チョコをもらえなくても、



徹底的に負けることの価値

2018-12-25 | 日記

 一年も終わりを迎えようとしています。
どのような一年であったでしょうか。
自分の思うように結果を残せ、満足したいる人もいると思いますが、
逆に、思い通りにいかずに、失敗したり、挫折したり、他にもさまざまな事で、辛く苦しい
一年であった、という人もいると思います。

ある人がこのように言っています。
「負けるときは、中途半端ではいけない。徹底的に負けることが必要です」
心底共感している私です。

徹底的に負けなければ、人は変われないものです。
言い訳や責任転嫁してしまう弱さは、誰もが持ち合わせているものなのでしょう。

例えば、人間関係・・・昨日、妻と不穏な空気に、、今朝まで引きずるくらいです。
お互い、さまざまなことが溜まってバランスを取っているところはあると思います。
そういう意味では、
ストレスは発散がなされ、良い部分もあると思っています。

私の立場で見ると、妻に悪影響が及ばないように、また、自分の自宅すら休まることができない
大きなストレスを抱えていることが根本的原因にあるのだが、、
そういうものを抱えながら、、、自分に負けることは容易なことではありません。

ある意味、私のこの一年は「負ける」ことの訓練なのだと言えます。

恥をかくこと、人格を否定されること、人権を踏みにじられること、差別されること、いじめられること、、、、

負けることを通して人間理解ができるのではないでしょうか。中途半端なら、「あの人が悪いことをしたから」
「私が悪い」「自分は正しい」と言い訳してしまいます。

私は「負け続けた」この一年が、貴重な体験をしているという視点で考えられることを感謝しています。
なぜ、そういう考えができるのか。
クリスチャンというのは、神様の前に、徹底的に罪を認めた(負け)者たちです。
神様の前に言い訳をし、言い逃れできることは何一つ無いのです。

徹底的に負けることは、その人の人生を必ず豊かにしてくれると信じます。


負けを認めることができずに、誰かを攻め続け、自分をも壊している人々が多い現状において、
負けることの幸いをもっともっと価値があることとして広められたらと思います。


そのために一つ大切なこととして、
もっともっと自己肯定できる大切な存在として生かされていることを知らなければならないと強く思うのは私だけでしょうか。