江戸時代の小判は、時代によって重量や金の純度が変わっていきます。
1600年(慶長5年)から流通が始まった慶長小判は4.76匁(17.9g)で、金の純度は約84.3%でしたが、1695年(元禄8年)製造の元禄小判は、重さこそ17.8gと変わりませんが、金の純度は57.4%と30%近く下げられています。
その後1710年(宝永7年)から鋳造された宝永小判は金の純度は慶長小判と同じ84.3%でしたが、重さは2.5匁(9.4g)となり、金の含有量は元禄小判から24%下げられました。
1714年(正徳4年)発行の正徳小判は、重さ4.7匁(17.85g)、金純度84. 3%と、慶長小判にほぼ近いものに戻りました。実際には2.5%ほど低い純度で製造されていたため、世間の評判は悪く、すぐに慶長小判と同じ規格の享保小判が製造されました。(1714,15年から1736年まで)
1736年(元文元年)から製造された元文小判では、重さが約13.1g、金の純度は約67%となり、金の含有量は享保小判の約15. 46gから約43%も低い約8.78gとなりました。
裏面には文の字が刻印され、文字小判とも呼ばれました。
その後はさらに重量、金純度は下がっていき、1819年(文政2)~1837年(天保8)発行の文政小判は重さ13.5g、金純度56%、1837年(天保8)~1858年(安政5)発行の天保小判は重さ11.3g、金純度56.8%
、1859年(安政6)発行の安政小判は重さ9g 、金純度56.8%でした。
1860年(万延元)~1867年(慶応3)に発行された江戸時代最後の万延小判は、重さ3.3g、金純度56.8%で、サイズが3.6×2.1cmしかなく、雛小判と呼ばれました。