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2月10日 松下幸之助一日一話 (松下幸之助.COM )
同行二人
弘法大師さんが開かれた高野山にある霊場に詣でる人びとの菅笠には、みな一様に“同行二人”とかいてある。どこにいようと、どこに行こうと、自分は一人ぼっちではない、いつもお大師さまと二人という意味である。
つまり、これら信仰三昧の人びとの心の中には、いまもなお大師は生き生きと存在しておられるのである。
もちろん、大師の生身の身体が、そのままここにあるというわけではない。しかし、大師はいまもなおここにおわすと感じること、また感じようとつとめるところに、大師の教えが永遠に生きてくることになる。真理は永遠に生きるというのは、こんな姿を言うのであろうか。
【コラム】筆洗
2014年2月9日東京新聞TOKYOWeb
▼松本清張さんにも失敗はあった。一九五七年、週刊誌に連載した『眼の壁』。ある場所の描写で筆が滑った
▼岐阜県瑞浪市を流れる土岐川を「町の中を清流が」と書いた。事実ではない
▼陶器の生産地。川の水は当時、陶土で白く濁っていたのだ。忙しい清張さんは地図上の想像で描写することもあったという。読者の指摘でただちに「水は真白く濁っていた」と、訂正した
▼これとは異なるが、村上春樹さんの『ドライブ・マイ・カー』が騒動になっている。北海道中頓別(なかとんべつ)町出身の二十四歳の「みさき」が運転中、煙草(たばこ)を窓の外に弾(はじ)き捨てる。「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」。ここに町議が反発した
▼町議の気持ちも分かるが、事実の誤りではなく、主人公の「主観」の問題である。「みさき」が煙草を投げたのは主人公への同情や好意の表れか。問題の文章はその好意にあえて気付かないふりをする主人公の思いと読める。自分への好意ではなく「中頓別町ではみんなやっているのだろう」と思い込もうとする。あくまで解釈だが、本気ではない気さえする
▼村上さんは名前は変えるというが、中頓別町に後悔はないか。「みさき」は魅力的でさえある。『坊っちゃん』で夏目漱石は松山の悪口をさんざん書いたが、作品は松山の自慢であろう。何か知恵はなかったか。瑞浪育ちは思う。
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