先日歌舞伎の初世団十郎が舞台で刺殺されてことを書いて、
その後ですぐ何か思い出したのですが,何だかはっきり分からず
じまいで、今日になってやっと思い出すことが出来ました。
キーワードは「初世」と「刺殺」でした。
豊後節の流れを組む浄瑠璃、清元節の創始者である初世清元延寿
太夫(1777~1825)も実は刺殺されているのです。
これが思い出せなくて。もうイライラでした。
富本節から出て清元節を起こした延寿太夫は当時大変な人気がありま
したが、その最中、文政八年に何者かによって刺殺されてしまいます。
このへんを再確認していたら、「武江年表」にこれに関する記述があ
りましたのでそのまま抜粋します。
文政八年 乙酉 (きのととり) 1825年
○五月二十六日 浄瑠璃語清元延寿斎死(清元姓の元祖なり。延寿の
名は二代目也)
金吾云、四十九歳。深川浄心寺に葬す。初め初代富本斎宮太夫(いつき
たゆう)の弟子となり、二代目斎宮太夫を嗣ぐも、師の没後、富本家元
二代目豊前掾と不和になり、文化八年富本より退く。
同九年、三世中村歌右衛門に望まれ、豊後路清海太夫と改名して出演す。
同十一年、清水延寿太夫と名乗りしも、御三卿の清水家にはばかりあり
とて、町奉行所より差止められ、清元と改姓、清元節の一派を立つるや、
その粋なる語り口が評判となりて、富本節は次第に衰退す。
かくて延寿太夫は文政七年薙髪、延寿斎と名を改め、同八年五月、芝居
より弟子を同道、帰宅途中、何者かに襲はれ殺されたるなり。
犯人は捕らへられざるども、当時は富本の一派の仕業と噂さる。
と、上のような記述がありました。
当時大阪から下って来た三世歌右衛門は江戸で大変な人気で、その
歌い手としての延寿太夫の名声も次第に高まっていったのでした。
延寿太夫の人気を僻んだ富本の手の者の仕業と言われていますが、
歴史はそれをはっきりとはさせてはいません。
団十郎といい延寿太夫といい、ともに殺されてしまうのは単なる偶然
かも知れません。
しかしそこに初代の宿命のようなものを感じるのは私ひとりか知らん。
ともあれ、思い出したので追記しておきました。
その後ですぐ何か思い出したのですが,何だかはっきり分からず
じまいで、今日になってやっと思い出すことが出来ました。
キーワードは「初世」と「刺殺」でした。
豊後節の流れを組む浄瑠璃、清元節の創始者である初世清元延寿
太夫(1777~1825)も実は刺殺されているのです。
これが思い出せなくて。もうイライラでした。
富本節から出て清元節を起こした延寿太夫は当時大変な人気がありま
したが、その最中、文政八年に何者かによって刺殺されてしまいます。
このへんを再確認していたら、「武江年表」にこれに関する記述があ
りましたのでそのまま抜粋します。
文政八年 乙酉 (きのととり) 1825年
○五月二十六日 浄瑠璃語清元延寿斎死(清元姓の元祖なり。延寿の
名は二代目也)
金吾云、四十九歳。深川浄心寺に葬す。初め初代富本斎宮太夫(いつき
たゆう)の弟子となり、二代目斎宮太夫を嗣ぐも、師の没後、富本家元
二代目豊前掾と不和になり、文化八年富本より退く。
同九年、三世中村歌右衛門に望まれ、豊後路清海太夫と改名して出演す。
同十一年、清水延寿太夫と名乗りしも、御三卿の清水家にはばかりあり
とて、町奉行所より差止められ、清元と改姓、清元節の一派を立つるや、
その粋なる語り口が評判となりて、富本節は次第に衰退す。
かくて延寿太夫は文政七年薙髪、延寿斎と名を改め、同八年五月、芝居
より弟子を同道、帰宅途中、何者かに襲はれ殺されたるなり。
犯人は捕らへられざるども、当時は富本の一派の仕業と噂さる。
と、上のような記述がありました。
当時大阪から下って来た三世歌右衛門は江戸で大変な人気で、その
歌い手としての延寿太夫の名声も次第に高まっていったのでした。
延寿太夫の人気を僻んだ富本の手の者の仕業と言われていますが、
歴史はそれをはっきりとはさせてはいません。
団十郎といい延寿太夫といい、ともに殺されてしまうのは単なる偶然
かも知れません。
しかしそこに初代の宿命のようなものを感じるのは私ひとりか知らん。
ともあれ、思い出したので追記しておきました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます