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俗耳鼓吹ー五世団十郎

2006-02-14 17:21:04 | 書籍
 太田南畝の随筆である「俗耳鼓吹」を読んでいたら、語呂合わせの
遊びについてのところで、面白いのがありましたのでちょっと触れて
見たいと思います。

 
 地口変じて語路となる。語路とは、詞続(ことばつづき)によりて、
然もなき事の、其ときこゆる也。たとへば、

 九月朔日(ついたち)いのちはおしし

「河豚はくひたし命はをしし」と響の聞ゆるなり。

 市川団蔵よびにはこねえか。

「うちから誰ぞよびにはこねえか」と聞ゆるなり。

     中略

市川團十郎三升、市川八百蔵の後家と(名はおるや)と密通の沙汰ありし時、

 八百蔵が後家へさんじょう(参上ー三升)つかまつり


とあり、当時太田南畝は五世団十郎と親交があり、団十郎も役者である
ものの文人でもあり狂歌名を持っていたほどで、南畝の家に立ち寄って
狂歌を読んだりしています。南畝を代表とする狂歌連は団十郎らを引き
入れ狂歌三昧に明け暮れていたころのことです。

 さて肝心の本題は、一説によるとこの頃四世幸四郎は自分の息子の
将来の出世のため、団十郎とおるやの噂を流したと言われています。
南畝はそのことを言っているのですね。これを受けて団十郎は安永7年
(1778年)舞台に出演中に、幸四郎が流した噂話に突然言及。つまり
公衆の前で怒り心中でぶちまけたというわけです。

結局団十郎はこれより後中村座を降りて森田座へ移り、幸四郎とは犬猿の
仲が当分の間進行して行きます。

 この四世幸四郎は癖が悪かったのか、この後も初代の尾上菊五郎と
市村座でトラブルを起こします。このときも菊五郎が激高。刃物を持ち出
しての喧嘩沙汰でしたが、周りの者が止めに入り事無きを得たようです。

初代の団十郎は1704年に市村座の舞台で生島半六に刺殺されています
し、昔の役者さんは今とは違い、時代を反映する人気商売だっただけにあ
らぬ噂をたてられたりして、ある意味で命賭けだったのかも知れません。

いつの世でも故意に変な噂を流すひとはいるもんです。

「俗耳鼓吹」を読んでいてちょっと思い出した昔の江戸歌舞伎のエピソード
でした。

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