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ラテントピック・一語一絵 その10

2021-02-23 10:15:26 | ラテントピック・一語一絵


Johnny Alf

ジョニー・アルフ

キリの良い10人目はこの人。

ブラジル音楽、特にボサ・ノバなら忘れてはなら
ない存在だろう。

ボサ・ノバと言えばトム・ジョビンやらジョアン・
ジルベルトと言うことになっている。
そもそもボサ・ノバとはどう言う意味なのだろう
ねえ。

ボサは「コブ」だと。確かにuma grande
bossa は「大きなコブ」と言う意味になる。
だから、ボサは盛り上がり感とか高揚感だと
かアップ感だとか。

で、ミュージシャンの間でその言葉が受けて、
新しいコブすなわちボサ・ノバと呼ばれるよう
になったと言うがどうなのだろうか。

ボサ・ノバがあるならボサ・ベーリャもあり
そうなものだが聞いたことがない。どうも意味が
ハッキリしない。音楽だから感覚から来たかな。

思うにボサ、つまりbossaは何かの単語の省略
じゃないの。つまり何とかボサとかボサ何とか
と言うべきところを欠落させて短くしたとか。 
要するにアブレビです。大体ミュージシャンは
言葉を短くして使うのが好きですね。  

エンカルナシオンと言う女の名前が長いから、 
エンカルナ!と呼ぶ。バウティスタと言う男の
名前が長いから バウト!と呼ぶ。

ボサもこれと似たようなことでは無いかと思う
けど勝手に想像するだけで全く根拠はない。
英語ならNew waveとでも言うところかな。
waveだって持ち上がる。もっともこれも
わざわざold waveなんて呼ばないね。何だか
消極的な印象がする。まあ、今更意味なんか
何でも良いけどね。諸説ありますし。

ジョニー・アルフより少し前の世代のシロ・モン
テロも確かにボサと言う言葉を入れた題名の曲を
出しているし言葉自体はあの頃からすでにあった
のだろうね。

有名なDesafinadoと言う曲の中にはBossa nova
が歌詞として出て来る。また別にBossaudadeなんて
単語もある。もっともこれは語呂合わせみたいなものだ。
1950年代の中頃には歌詞としてのボサと言う言葉は
存在していたようだ。
エリゼッチ・カルドーゾにもボサノバの原形みたいな
曲もある。この人は3回くらい日本に来てる。

エルザ・ソアレスも1960年にA Bossa Negra
と言うタイトルのレコードを出している。
Bossa Negraと言うのが良いね。残念だけど
エルザ・ソアレスは亡くなってしまいましたが。

まあもう今更どうでも良いトピックではあります
けど音楽業界とすればボサ・ノバだろうとJ-Pop
だろうと目新しくて儲かればそれで良いのだろう。
何か新鮮な感覚を作り出して一発当てて儲けるのは
昔から変わらない体質ではあるけどね。切り口を
変えてビジネスを広げるのは良くやるから珍しく
はないけど。

脱線したけど、ジョニー・アルフはボサ・ノバの
父とも呼ばれてる。意外と知られてないみたい。

ボサ・ノバと言う線路を敷いておいたのがジョニー・
アルフ、その上を走ったのがトム・ジョビンと
でも言うところだろうか。見たことのない電車なら
みんな見るけど線路まではあまり見ないもの。
 
ジョニー・アルフはずっとリオのプラザホテルの
ナイトクラブでピアノを弾いていてジャズっぽく
したサンバカンサァンみたいのを演奏していたという。
そこに他の若いミュージシャンも飛び込んで来て
ジャムセッションみたいなのを自由にやっていた
らしい。1955年くらいかな。戦後のアメリカの
ジャズが馴染みだした時期だ。アメリカナイズ
は何の世界でもあるね。ボサ・ノバがアメリカに
行って商業的に当たりそれが今度は日本に
アメリカナイズド・ボサ・ノバとして入って来る
ようになる。アメリカ系のボサ・ノバね。

アメリカは戦後の外交政策の一つとして、ギタリストの
チャーリー・バードを含むバンドを南米ツアーに送り
出している。この時ブラジルから持ち帰った音源に
トム・ジョビン等の演奏が入っていて、これを気に入った
チャーリーは帰国後にレコード化を持ち掛けた相手が
スタン・ゲッツだ。1961年のことだった。翌年の1962年
に Jazz Samba と言うタイトルのアルバムを出して
これが大当たりとなりグラミー賞に輝くこととなる。

この後もルイス・ボンファと共に演奏したりスタン・ゲッツ
の名も知られて行くのではあるが、後に、Jazz Sambaに
対するチャーリー・バードの貢献度が低評価だとして
スタン・ゲッツとレコード会社は訴訟されてしまう。
結局チャーリー・バードの言い分が通りアルバムの
ロイヤリティの半分が認められた。

チャーリー・バードはヨーロッパ滞在中にイタリアで
あのアンドレ・セゴビアにギターのレッスンを受けて
いるようだ。セゴビアの名前を思わぬところで発見し
たのは意外だか、僕はグラナダのアルバイシンの広場で
行われたセゴビアのコンサートを見ている。
その時に握手した彼の手の厚さに驚いたものだ。後年になり
ユパンキと握手した時もセゴビアの手のような感覚が蘇り
ビックリしたことがあった。忘れられない思い出だ。

ジョニー・アルフはその後サンパウロに移り住む
のだけど、まだ若いトム・ジョビンやジョアン・
ジルベルトがジョニー・アルフに会うのはこの頃
のことだと思う。
後にボサ・ノバと呼ばれるようになる下地が作ら 
れたのはこのリオ時代かと思われる。

ジョニー・アルフがいなければボサ・ノバの登場
は無かったのかも知れない。彼の演奏スタイルが、
マンネリ歌謡サンバに飽き何かハイブラウで
上品な音楽に憧れていたトム・ジョビンに新しい
方向性を示したことは間違いないだろう。ハイカラ
好きな知識層に受け入れられたのだと思う。
仲の良い相棒のニュートン・メンドンサからの
影響もかなり大きかったのでは。想像だけど。 
裕福層には受けたのだろうね。山の手趣味風だから。
都市型アーバンポップスならアメリカ人の
マーケットでも受けるよ。日本は今だにボサ・
ノバがブラジル音楽のライブで取り上げられるが
大抵はこの頃の曲が多い。ブラジル音楽と言えば
サンバとボサ・ノバと言うイメージなんだろうね。
ブラジルで平均して人気のあるのはセルタネージャ
なんだけど余り紹介されないのも不思議だし、
マリリア・メンドンサが飛行機事故で亡くなった
のも残念なことだった、これもあまり取り上げら
れなかったニュースだったがこれからと言うセルタネ
ージャ歌手だった。まだ20代ではなかったかな。


有難いことにジョニー・アルフがYoutubeでも見
られる。ナット・キング・コールが好きだったらしい。 
何となく分かるね。

享年80才。前立腺ガンだったと言われる。

かつて東横線が桜木町終点だった頃に、駅の
近くに洒落たレストランがあり、そこで
アメリカ人と思われる女性がピアノを弾いていた。
ラテンものをレパートリーにしていたので良く
通ったのを思い出した。雰囲気の良い店だったな。
また話題が飛んでしまう。

脱線ついでに、前述のシロ・モンテロには
Senhor Sambaという曲もある。
何と8人兄弟で、全員名前のイニシャルが
"C"で始まっている。これで思い出すのが
バイーヤ出身の4人組の女性姉妹グループ、
クアルテート・エン・シーだ。4人とも名前
がシナーラとかシベーリなど"CY"で始まる。
当時は子供達にアルファベットの同じ一文字
で始まる名前をつけるのが流行りだったのかな。
詩人で作詞家でもあるビニシウスが4人の
名付け親らしいが4人ならともかく8人もい
たら呼び間違えそうだ。

とまあここまで勝手なことを長々と書いてしまった。
半分くらいにすれば良かったかな。余談が長すぎた。
当たらずと言えども遠からず、と言う想像の部分も
いくらかあると思う。記憶をたどるのも楽では無くなっ
て来た。思い出したらすぐ書き出しておかないとダメ
だね。若い頃の記憶が薄らいで来たもの。

一語一絵ではないや。長語一絵になった。

何枚か描いてみたけど上手くいかない。
諦め気味に描いた最後の一枚がこの見出しの絵。 
何と2,3分で描けた。何でも力が入ってはダメな
んだね。絵を上手く描くのは難しいよ。
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