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銀座銀幕かつての話

2009-04-25 22:08:41 | その他
エリザベステイラー。本当に綺麗だった。


エルビスプレスリーで思い出すのは何と言っても「ブルーハワイ」。
この歌はプレスリーの持ち歌だとずっと思っていたが、それより遥か
以前にビングクロスビーが同じ歌をレコードで出していたとは全く
知らなかった。ビングクロスビーも懐かしい名前だが、これに刺激
されてか、消えかけている記憶が蘇り、プレスリーの西部劇「燃える
平原児」という映画を見たのを思い出した。

プレスリーが初めて西部劇に出るというので話題になった映画である。
白人とインディアンとの混血の青年が両者との争いに巻き込まれていく、
といった役どころだったが、映画自体はあまりヒットしなかった。
「燃える平原児」のほうが「ブルーハワイ」より早く製作されたのでは
ないかと思う。1960年初頭の頃のはずだ。

「燃える平原児」をどこで見たのかがはっきりしない。多分銀座か
日比谷か有楽町あたりだろう。というのはあの頃は学校の授業が終わ
ると映画を見に良く寄り道をしていた。学校から銀座は近かったので
ブラブラ歩いて行ったものだ。まだ都電が走っていた時分のことである。

鍛冶橋のあたりには鍛冶橋座、また東京駅八重洲口にもヤエススターと
かいう映画館があった。八重洲のあたりにはあと二つほど映画館があった
が成人映画系だった。いずれも小さな映画館だったが今はもうない。

有楽町の辺りはまだ少しゴチャゴチャしていて、松竹系の丸の内ピカ
デリーがあり、地下には丸の内松竹という映画館があったが、今の
マリオンよりは少し離れていて朝日新聞社の裏手あたりにあった。

ピカデリーは1階でチケットを買うと2階に行くのにエスカレータで
上がる。これがなんとも気分を高揚さてくれる。ここでは「ウエスト
サイドストーリー」を10何回も見た。

この丸ピカの真向かいに、ビルの名前は忘れたが、電気の照明やら
トリックやらを展示してあるビルがあった。入場は無料だったから
面白いので、時間潰しによく寄ったものだが、しばらくすると無くなって
しまった。

数寄屋橋交差点へ出る大通りの向こう側には東映系の東映パラスが
あり、ここで丹波哲郎とウイリアムホールデンの戦争映画「第七の暁」
を見た記憶がある。たしかこの映画館だったと思う。キャプシーヌも
出ていてウイリアムホールデンと噂があったが、良い役者が揃っていた
映画だった。まだ丹波哲郎もウイリアムホールデンも若かった。




「ベンハー」をロードショーでテアトル東京で見たのもこの頃だったが
後になって学校の授業の一環としてまた見てしまったことがあった。
「十戒」よりも「ベンハー」の方がチャールトンへストンは生き生きと
している。70ミリ映画は音も映像もすごい迫力があった。

あの頃映画館の名前は、スカラ、ミラノ、パンテオン、パラス、ピカデリー
と外国のそれっぽい名前が多くつけられていて、今もその名がそのまま
残されている。一種のあこがれ文化のようなものだ。みる人をワクワク
させるにはまず名前から、というわけだろう。カタカナが多かった。

そこへ行くと、「帝劇」なんていうのはドッシリしていて、いかにも帝都
東京の劇場という響きがあり歴史の重さがあった。たしか赤いカーペット
で木目の雰囲気が漂い格調高く、それこそ別格の帝国の劇場だった。

「これがシネラマだ」を見た覚えがある。画面がすごい迫力で飛び出し
て来る。思わず腰を引いてしまう錯覚すら感じた。スクリーンが凄かった。
まるでその場にいるような臨場感がありハラハラさせられる。



ジェットコースターの場面。怖かった。

「シネラマ」「シネマスコープ」「総天然色」なんてうたい文句が刺激的
ですらあった時代だった。信じないかもしれないが、当時映画館では
ニュースも上映していた。本編が始まる前にまずニュースが放映される。
「毎日新聞ニュース」、「読売新聞ニュース」とか題し、地球の上に三脚を
立ててその上のカメラがぐるりと回る、そういう出だしだった。
即時性はないが、南氷洋の捕鯨船の活躍とか、世界の国々のニュースを
ずい分と見た。今となっては変な呼び方だがニュース映画という。

映画館では休憩時間には売り子が出て食べ物を売る。銀座あたりだと
上品なアイスクリームを売りに来る。これまた映画を見るときの密かな
楽しみで売り子が近くに来るのを期待して待ったものだった。

下町の映画館の「おせんにキャラメル」とは趣をずいぶん異としたもので
映画館が立派なら売り子も品が良い。近頃のシネコンの映画館ではポップ
コーンが流行りだが、かつてはアイスクリーム、それもモナカのアイスクリ
ームが定番でした。

1960年代は一番多く映画を見た時代です。ヤコペッティの「世界残酷物語」、
リズテイラーの「バターフィールド8」、キャロルリンリーの「青春の旅情」、
「栄光への脱出」、「ナバロンの要塞」、モノクロだった「史上最大の作戦」。



いつも眠そうなロバートミッチャム。

モニカヴィッティ、ジャンヌモロー、ジャンギャバン、イヴモンタン、キムノバック、
フランソワーズアルヌール、パスカルプティ、クラウディアカルデナーレなどなど。
まあ、良く出てくる。キムノバックもアルヌールも良かったな。美人だった。

超大作もB級も。2本立ても、3立ても。白黒も総天然色も良く見た。

1968年の廃刊まで「映画の友」は毎月読んだ。「エルシド」の撮影が現在
スペインで進行中、なんて記事の出ていた「映画の友」がついこないだまで
家にあったのだけど、捨てられちゃったかなあ。昨日のことのようだ。

書き出したら次々と思い出します。どれも懐かしい。


銀幕の世界とアイスクリームの甘い誘惑。どちらももはや遠い日の記憶と
なりました。何か刺激がないとどんどん忘れていきそうです。

困ったもんだ。


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5 コメント

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驚くべし!!! (光ちゃん)
2009-04-26 20:57:13
昨日若年の知人に70㍉映画の素晴らしさを語ったばかりでした。
あたかも自分が監督か何かになった気分で、あの素晴らしい画面を知らない世代を哀れむ思いで見つめながら・・・・。
話は『大脱走』のTV放送の画面を見ながらがきっかけでした。

そしてこちらのお話ですから、ちょっと驚きです。

沢山の映画俳優のお名前は一つ一つ印象的ですね。
リズは綺麗でしたよ。彼女がいなければかの大作『クレオパトラ』は造られなかったでしょう。
いつも眠そうなミッチャムさんを初めとするオールキャストの『史上最大の作戦』は、次から次から顔を出す名優達で感動ものでした。
連合艦隊を発見するゲルト・フレーベは007でも出ていましたし、かすかな音で射殺される不運なサル・ミネオ、ジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ大物以外にも沢山の俳優が映画の中にひしめいていて、監督も三人いて、超大物製作者ダリル・F・ザナックという馬鹿でかい映画でした。
『The longest Day』を水野晴郎さんが『史上最大の作戦』と命名された事を書かれた映画雑誌まで甦ってきます。

そしてよくぞ思い出させてくださいました。
『世界残酷物語』、あの下手物世界と相反する美しいテーマソング“モア”は実にセンセーショナルでした。ナレーションの小沢栄太郎さんの声まで耳元に響いてきます。
後日アンディ・ウイリアムズの歌う“モア”を聞いてふるえが来て泣いたのを覚えています。
なんだったのでしょう????今もカラオケの十八番です。(すみません)

映画は田舎者の私と、大都会とそして憧れのアメリカやパリと直接繋がるチューブみたいなものでした。
都会に住まれたnnakazawa様とはまた違った感覚はあったと思います。
映画館は当時最大の娯楽だったので、宮崎の田舎でも沢山ありました。でも映画館通いをするのは、不良というレッテルを貼られた愚か者のすることだという見られ方はしていましたね。

それでも映画への欲求は止まる事がなく、バンカラ学生みたいな映画気違いでした。
いいですようねえ、映画の世界は。
そして銀幕の向こう側の数々の女優さん達は、なぜにあのように綺麗だったのでしょう。

ところで今“気違い”と入力したら変換出来ませんでした。こんな言葉も差別用語ですか?
“freak”という意味合いでの日本語として使う事は出来ないのですねえ。

返信する
映画は楽しい! (nnakazawa)
2009-04-27 21:55:55
70㍉映画のお話をされた後でご覧になって頂けたとは。すごいタイミングでした。初めて70㍉映画を見たときは驚きでした。すごい迫力に圧倒されたのを覚えています。同じような体験をお持ちなんですね。共通した喜びを分かち合えるのを嬉しく思います。

「史上最大の作戦」の連合軍によるノルマンディー上陸シーンで、ドイツ側の見張りが望遠鏡で沖を見ていると、無数の点が画面いっぱいに広がります。やがてそれが上陸を目指す大艦隊だと判った時のドイツ側の驚きよう。思わず笑ってしまいました。

おびただしい数の船が陸に向かって進んで来る場面は印象的でした。水野晴朗氏の名訳は有名ですね、まだ
どっかの映画会社にお勤めの頃ではなかったでしょうか。「一番長い日」ではちょっと、ねえ。

「世界残酷物語」はイカモノ的な映画で今で言う
ヤラセみたいなところもありましたが、映画より
主題歌のほうがヒットしましたねえ。「モア」を
懐かしいと言える年代は何となく嬉しくなって
しまいます。拍手! いいなあ。

住んでいるところは何処であれ、映画館に入り浸り
なんて、東京でも良く思われませんでしたよ。
学校の補導の先生がいたり警察がいたり。映画を
見ること自体が悪いような決め付けでした。
それにもめげず良く通いました。もう銀幕の中は
夢とあこがれの別世界でしたから。特にアメリカ
映画は好きでした。


映画キチガイとか何とかキチガイとか良く言ったものですが差別用語なんですか?近頃は何でも不適当な表現にされてしまいます。変換しないようになっているのでしょうかね? メクラ板なんて何と言い換えたら良いのか困ります。アメリカ映画なんか昔は禁句だったFで始まるFour letter wordなど今じゃ平気で使われています。会話のシーンでもカットされないです。

NHKで放映されているアクターズスタジオのかく語りきシリーズで、スターとのインタビューではあまりに悪い言葉だとピーという音を上から被せて聞こえなくしています。さすがにテレビだと禁止用語なのでしょうねえ。差別用語とはちょっと違いますが。

日本のほうがやや神経質なのかも知れないです。

そうそう、「スクリーン」という月間誌もあり
ました。映画の雑誌なら何でも見ました。
スターの似顔絵なんかファンの方が投稿していま
したが、みなさん上手いものでした。懐かしい
ですね。
返信する
気も季もちがう! (nnakazawa)
2009-04-27 22:24:58
おっしゃるとおりですね。「気違い」という表現は
放送禁止用語であり差別用語である、ウエブ上に
出ておりました。これは知りませんでした。
うっかりしておりました。だから入力しても変換
しないのかも知れません。どういう場合でも使用
禁止なんでしょう。日本語は難しいです。

Four letter word は words と読んで下さい。
Sを落としてしまいました。

俳句では「季ちがい」というのがありますが、
うっかりすると間違えられそうです。
返信する
日本語は難しい・・・関連から。 (光ちゃん)
2009-04-28 21:07:54
“俳句では「季ちがい」というのがありますが、”
というのを上手に使ったトリックを考えたのが、横溝正史さんの『獄門島』でしたね。
『獄門島』の中にこの言葉(俳句用語である「季違い」と、「気違い」の聞き間違い)がミスディレクションとして使われていました。
同映画のTV放送中のこの気違いのところでピー音がかぶせられ、『ウィキペディア(Wikipedia)』でも過度の放送禁止用語についておかしいと書かれていました。
言っては悪いですが、昔は“ビッコ”“セムシ”“カタワ”“メクラ”等々それはそれは沢山の差別用語がありました。でも心から差別をしていたわけでもないし、それほど神経質になるほど相手も傷ついてはいなかったような気がします。

差別が言葉そのものにあるとは思えませんけれど、やはり体裁を考えるのは現代人の悪い風潮ではないでしょうかね。
返信する
佐分利信でしたっけ? (nnakazawa)
2009-04-28 22:35:28
お寺の住職役で金田一探偵の前でつぶやくシーンで
したね。そうです、そうです。「季」と「気」を
引っ掛けて使われたのを、後で金田一探偵がもっと
早く気がつくべきだった、とか後悔する場面があった
ように記憶しております。

言っては悪いと思っておりましたが、やはり同じ様な
印象をお持ちなんですね。安心しました。「いざり」
なんかも差別用語になるのでしょうけど、もう町で
そのようなひともお見かけしませんし、イザリ?って
何って聞かれるくらいのものになってしまいました。

初めに体裁ありきで、触らぬ神に祟りなしなのかも
知れません。

過度に神経質になりピーという音で消そうとするほど
逆効果のようで、かえって不自然ですね。

時代小説なんか書くのに差し障りがあるでしょう。
作家先生たちも大変ですね。
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