HDR_nonbe

HDR写真 (ハイダイナミックレンジ写真)を中心に、ときどき(3DCG・建築パース・酒・サッカー・音楽・囲碁)など

『雉子橋』

2010年04月10日 11時46分35秒 | ■ HDR-multi shot

NIKKOR 18-55mm F3.5-5.6、RAW×3→HDR。

関東御うち入の以後、から国の帝王より日本へ勅使わたり、数萬人の唐人江戸へ来たり、これらもてなし給には、雉子にまさる好物なしとて、諸国より雉子を集め給う。この流れのみなかみに鳥屋をつくり、雉子をかぎりなく入をきぬ、その雉子屋のほとりに橋一つありけり、それを雉子橋となづけたり。(左の橋、上は首都高)
※しかし、「数萬人の唐人」て、あわよくば乗っ取ろうとしたとか、おおがかりな鉄砲玉であとから10倍ぐらいの本隊が襲来する予定だったり?

『雑居』

2010年04月10日 08時32分33秒 | ■ HDR-multi shot

NIKKOR 18-55mm F3.5-5.6、RAW×3→HDR。

九段下ビル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
九段下ビルは、東京都千代田区神田神保町3丁目にある雑居ビル。旧称:今川小路共同建築。
関東大震災で被災した近隣の商店主達が共同出資して組合を作り、公庫低利融資を受けて建設したもので、当初は出資額に応じて持ち分が割り振られていた。南省吾が設計し1927年に竣工。同潤会アパート・復興小学校・聖橋などと同じく、東京復興のランドマークになった。
鉄筋コンクリート造の中規模ビルディングで、1階は路面店舗、2階には商店主の居宅、3階は貸事務所という配置であった。看板建築の個人商店が立ち並ぶ町を立体化することで、土地の有効活用や災害耐性の強化などを図る目論見で、同種の企画は他にも立てられていたが、商業施設兼用の復興住宅として実現に至ったのは九段下ビルだけであった。
1935年にはニットー・タイヘイ東京吹込處が置かれ、多くの流行歌がここで収録された。また戦後の昭和30年代以降、大原簿記学校が当ビルで永らく開校していた。その後3階は区割りされ賃貸住宅に転用された。
都心の超一等地にあるため地上げの格好のターゲットにされ地権が複雑化したが、バブル崩壊によって沙汰止みになり、補修の手を加えられぬまま老朽化が進んだ。