「実に苦々しい話だ!」中島先生の表情は冴えない。「Y、既にお前達も情報を得ているとは思うが、菊地が“復学”に向けて“政治的圧力”を加えて来た。県議を動かして教育長に“強訴”したのだ。県教委としては“学校の自主性”を重んじてはいるが、今回は圧力に屈してしまった。校長も強硬に“無期停学”の必要性を訴えたが“喧嘩両成敗”と言う事で和解させられた。2期生としては、出席日数の関係で無理だが3期生として“復学”に向けての手続きを取らざるを得ない。唯一の救いは“学力試験”が認められた事だよ。試験に合格しなければ“停学”を解かなくても済む。何せ“出席日数”が足りなさ過ぎるし、学力を判定しなくては3期生とするか?4期生に格下げするか?の判断が付かない。いずれにしても“無駄な足掻き”になるだろうが、実に苦々しい話だよ!」先生は吐き捨てる様に言った。「試験の合格ラインはどの辺りでしょうか?」僕は突っ込んで見た。「全学科90点以上だ!この線は校長が“死守”し抜いた結果だ!ハードルはかなり高いと言えるな!試験範囲の設定も校長が“死守”して1年生通年としたよ。突破は容易ではないだろう!」先生は肩を叩きながら言った。「では、1学科でも90点を落とせば“無期停学”は継続なのですね?」僕は先生の肩を揉んでやりながら聞いた。「そうだ!当然だろう?今までの“犯罪歴”を踏まえればクリアすべきハードルは、高く設定する必要がある!もうちょっと右の下だ!」僕は揉む位置を変えてから「試験日程はいつです?」と聞いた。「来週末の日曜日だ。又しても“休日出勤”だよ。これから大車輪で試験問題を作らなくてはならない。勿論、出題範囲についても校長が“死守”して、こちらの自由にしてある。昨年末の“足掻き”の際より後、つまり1年生の3学期から出題しても構わないのだ。打ち合わせでは各教科が足並みを揃えて1年生の3学期の課程から主に出題する事にした。今度は左の下を頼む!」先生の肩は思っているよりも固かった。「しかし、仮に突破されたらどうなります?」と更に聞くと「実はな、今、お前達が履修している範囲も対象にする事になっておるのだ!それも“授業に出ていないと分からない”内容も含まれる!ハードルを簡単にクリアさせる程、甘くは無いぞ!今度は叩いてくれ」「なるほど、棒高跳びでもクリア出来ない高さに設定するのですか。最初から“落とす”つもりですね!」僕は軽やかに先生の肩を叩いて聞いた。「うむ、お前達が卒業するまでは“閉門”にするのが狙いだ!そして、退学に追い込む!悪事に複数回手を染めた罪は軽くは無いのだ!これも一重にお前達の健全な学生生活を守るためだ。校長も“2期生の進路が決まるまでは粘って見せる”と言って居った!料理はワシ達に任せろ。校長も含めて教職員一同、お前達に災厄が降りかかる事だけは避ける方向で動いている。もういいぞ。大分楽になった。Y、心配するな!我々の眼が黒い内は手出しはさせん!この話を一刻も早く持ち帰って“悪戯に騒ぐな!”と申し伝えろ。ヤツは我々の手の内で硫酸の壺に堕ちるのだ。安心しろ。悪い様にはしない」先生は首をグルグルと回すと立ち上がって伸びをした。「分かりました。今の話、早速持ち帰って騒動にならない様に努めます!」「うむ、Y、頼んだぞ」僕は生物準備室を出て教室へ急いだ。
教室の片隅では長官以下査問委員全員が協議を続けていた。「参謀長、担任は何と言って居った?」すかさず長官が誰何する。僕は聞いたままを話して「学校側としては“名を捨て実を取った”つもりでしょうが、今回ばかりは嫌な予感がするんですよ。大学受験並みの事をやられたら、如何にハードルを高くしても突破される危険性が高い。杞憂であればいいんですがね・・・」と答えた。「相変わらず鋭い分析力だな参謀長!見解は的を射ているよ!原田からの情報では“家庭教師”を迎えて相当な事をやっているらしい」と伊東が言った。「“棒高跳びでもクリア出来ない高さ”とは言っても、ロケットエンジンがあればクリア出来る。菊地嬢は今回こそは“返り咲く”つもりだろう!こちらとしてもこの事を前提に対策を立てねばならない!来週末の試験日まで残された時間は少ない。やれるとしたら、妨害工策しか無いが原田と小佐野からの逆情報だけでは足りんな!伊東、“家庭教師”の足止めが出来ないか原田に依頼しろ!目下、ヤツにとっても目障りな存在である菊地嬢の事だ。嫌とは言うまい」長官が伊東に指示を出した。伊東は黙して頷くと教室を飛び出して行った。「しかし、今回は打てる手が限られますね。現実路線を行くなら3期生達に楔を打ち込んで置きますか?」僕は“復学”を前提とした路線を提起してみた。「うむ、石川に山本に脇坂を呼んで言い渡して置いた方がいいな!参謀長、そちらは任せる。女子に対する工作は西岡に指揮を執ってもらおう」長官は直ぐに同意した。「確かに打てる手は限られておる。だが、無策で待ち受けるよりは“非常線”を張り巡らせて置く事が、最大の防御策となる。策は我々で図り、詳細はクラス全員には通知しない。最も危険なのはパニックだ!今回の話は査問委員以外に口外するな。箝口令を敷く!」長官が宣言すると全員が頷いた。こうして“復学工作”の件は、水面下での動きに留められた。
向かえた試験当日の日曜日。誰に言われた訳でも無く、査問委員会のメンバー全員が“大根坂”の麓の神社に集結した。みんなでクラスの安寧を祈願すると山の上を見た。「始まったな。跳ね返さるのを祈るばかりだ」長官が静かに言い出した。「そうですね。八百万の神々にお願いするしかありませんよ」僕も自嘲気味に言った。「学校側の良心を信じるしかねぇし、1教科のみ11点だけ失点してくれればいいんだ」竹ちゃんが拝殿へもう一度向かった。久保田も続いた。祈りは届いたのか?結果は明日発表される事になっていた。“我らに安寧を”僕等には祈りしか無かった。
そして月曜日、僕は無理矢理に自転車を走らせて“大根坂”を駆け上った。息が荒くなり大汗をかいてフラフラになったが、どうしても確かめずにはいられなかった。昇降口を入って正面の掲示板を見る。1枚の紙が掲示されていた。
「1年6組 菊地美夏。右の者、“復学”試験に不合格となったため、“無期限停学”処分を継続するものとする。学校長、宮沢〇〇」
「セーフか!」これ以上の言葉は出なかった。外へ出ると水道で顔を洗い直し、水をガブ飲みして体を冷やした。自転車のサドルに座ると息を整える事に努め、後続のみんなを待った。「Y-、大丈夫かー!」道子の声が響いた。「おー!大丈夫、セーフだ!」僕が返すと竹ちゃんと道子が抱き合って喜んだ。「Y-、無茶をしおってからに、とにかくこれ飲んで!」と堀ちゃんがポカリのボトルを差し出して、ノートを取り出して風を送ってくれた。雪枝と中島ちゃんはハンカチを濡らして顔と額に当ててくれる。さちは傘を開いて日陰を作ってくれた。竹ちゃんと道子は改めて掲示板を見て雄叫びを上げていた。「参謀長、やったな!」竹ちゃんが握手を求めて来た。道子とはハイタッチで祝福を交わした。「ねえ、何があったのよ?」堀ちゃんが聞いて来る。「“復学”阻止成功だよ。掲示板を見れば分かる」ようやく整った息で答えると「また、菊地さん絡みなのね?Y達が水面下で動いていたヤツか」さちが言うと「魔女の復帰はまたしても阻止されたのね?3期生としての“復学”の芽は消えたって訳ね!」と中島ちゃんが言う。「僕等が卒業するまで“閉門”は決定的だよ。これでまた不安の種が消えた」僕はしみじみと言う。何とか体が落ち着いたところで、昇降口を抜けて改めて掲示板に見入ると「懲りない性格の彼女にとって大打撃だよね」と雪枝が言う。「ああ、これで4期生の芽も消えただろうな。詳しくは先生から説明があるだろう」僕等は教室へ向かった。いつもの見慣れた光景を守れた事は大きかった。雪枝が言った通り、菊地嬢にとっては大打撃になったに違いない。「参謀長、どの程度の勝負になったのかな?」竹ちゃんが机に鞄を投げると聞いて来た。「多分だけど、際どい勝負ですり抜けたってとこだろうな。彼女だって馬鹿じゃ無い。1~2教科での失点が響いただろう」僕が返すと「際どいとこなら“抗議”して来るだろう?学校側はどう出るかな?」と更に突っ込んで来る。「校長が拒否するし、抗議を受けても却下するだろうな。90点の壁を破れなかった事は覆らない。学校としても“譲歩させられた”上での試験だ。はねつける理由はいくらでもあるさ」「いずれにしても、先生からYに説明があるでしょ?それを待つしか無くない?」道子が助け船を出してくれた。「竹ちゃん、みんなが知りたがってる話は、キチント聞いて来る。呼び出しを待ちましょう」と言うと「早く白黒を付けたいぜ!アイツの今後はクラスの浮沈に関わるからな!」と鼻息荒く言う。確かにカギは彼女の今後にかかっている。僕はレディ達と静かに話しながら呼び出しを待った。
ホームルームの前、僕は先生からの呼び出しを受けた。「結果から言えば¨惨敗¨だった。まともに授業を受けておらんのだから当然の結果だが、50点台では話にもならん!校長も呆れ果てて¨入試からやり直せ!¨と怒り心頭だったぐらいだよ!」中島先生も投げやり気味に言った。「では、まともに点が取れた教科は1つも無しですか?」僕は慎重に探りを入れる。「ああ、最高で58点、最低が52点、試験をやった意味すら感じない程の¨大惨敗¨に終わった。3期生どころか4期生として受け直した方が早いだろうな。菊地の両親にも告げたが、¨一旦退学して、受け直す事を真剣に考えろ!¨と思いっ切り釘を刺してある。近々、返事はあるだろうが、現状の¨無期限停学¨よりは現実的な選択でもある。菊地本人も肩を落として泣いておったから、今回ばかりは、嫌と言う程身の程を思い知っただろうな!」先生は眠そうな表情で言った。「学校側の判断は、菊地側にも伝えられて了承されているのですね?」「了承も何も¨試験で90点未満なら無期限停学は解かない¨との条件で和解したのだから、文句を付ける隙すら無い。政治的圧力で教育現場を歪めた責任は向こうにある。我々は和解に応じて“復学”試験を行ったのだ。今度は菊地側が誠意を見せる番だよ!」先生は当然の事だと言わんばかりに答えた。「では、3期生としての¨復学¨の芽は消えたと解釈して宜しいでしょうか?」「うむ、確実に芽は摘まれた。最短でも4期生からだ。だが、校長は¨余程の反省の態度が見られなければ、入試を通っても入学許可はしない¨と明言しておる。ヤツが戻る椅子は消え失せたと断言してもいいだろう。お前達には心配をさせたが、水際で取り押さえ、跳ね返した。今後、如何なる手を繰り出して来ても学校側として取り合う意思は無い!これは校長の意思であり、全教職員共通の認識だ。彼女に残された道は¨退学¨しか無い!」先生は力強く言い切った。「では、“菊地美夏”は本校に現れる事は2度と無い訳ですね?」「安心しろ!100%あり得ない!ヤツは葬り去られた。お前達の懸念は払拭されたのだ。今後は一層勉学に集中しろ!」先生の顔にも安堵の表情が出ている。僕は胸のつかえを降ろすと教室へ戻った。
1時間目の終了後、長官以下、査問委員が教室の片隅に集まった。「参謀長、学校側の見解を説明してくれ!」と長官が興奮気味に問うた。僕は聞いたままを説明して「“菊地美夏”は本校に現れる事は2度と無いと断言しても過言ではありません!」と言って報告を終えた。しばらく誰も喋らなかった。「感無量だな。ついにヤツを葬り去ったのか」久保田が沈黙を破った。「“大惨敗”の上に校長の意思の固さを考えれば、帰り道は完全に閉ざされたな」伊東もポツリと言った。「やっと“終戦”か。長かったね」千里も感慨に浸っていた。「でも、本当に“終戦”なのかな?奥の手とか無いよね?」千秋が唯一懸念を示した。「我々が卒業しても“復学”は叶わない。受け直しをするにしても5期生以降になるだろう。“菊地美夏”が我々に関わる事はもう無いのだ。奥の手などあるはずも無い!」長官が静かに言い切った。「ところで、“K査問委員会”はどうする?」竹ちゃんが聞いた。「解散させには惜しい組織だ。“K”の字を取り払って“査問委員会”として存続させよう。クラスの方針決定には必要不可欠な組織だ」長官が微かに笑って言った。「大団円だ!」竹ちゃんが言うと全員がハイタッチをして祝福した。“菊地美夏”クラスを常に混乱に陥れた魔女は、“退学”を選んで何処とも無く消え去った。僕等も彼女の存在を思う事はその後無かった。
梅雨入り前、クラスの男子達は“プール授業”について語り合っていた。昨年9月にようやく完成を見たものの、季節を逸したために昨年は体育で水泳の授業は実施されなかった。今年は、体育担当の浦野先生が“ビキニを着れば無条件で5を付ける”と明言したため、野郎共は色めき立ったのだ。その日の昼休みに「あー、もう嫌だ!ビキニなんて着られる訳無いじゃない!」有賀がかぶりを振って否定する。「そうよ!下半身デブを見られるなんて耐えられない!」千秋も悲鳴を上げた。クラスでビキニ有力候補と目された2人が早々に脱落宣言をした。生物準備室では「ビキニは無理だけどワンピースなら何とか着られそう。Y、眼の保養をさせてあげるね!」「誰が一番綺麗か判定してよね!」雪枝と中島ちゃんは前向きだった。「Y、ちょっといいかな?」堀ちゃんが僕を教室前の廊下に引きずり出す。「どうしたの?」と聞くと「正直に答えて。あたしの水着姿見たい?」少しうつむき加減で聞いて来る。「無理強いはしないよ。でも、男としては見たいのは確かだね」と言うと「あたし、ワンピースの水着を新調したの。Yにだけは見て欲しいの!今から部室へ付いて来てくれない?」と僕の顔を伺いながら言った。「今からか?堀ちゃんもしかして、水着持って来たの?」と聞くとコクリと頷いた。余程の覚悟で言いに来た事は察しが付いたし、ここで蹴ったら彼女に恥をかかせる事になる。僕は腹を括ると「よし、行くか」と返した。「内緒にしてよね」と言うと堀ちゃんはロッカーから水色の包みを取り出した。僕は準備室に一声かけてから、堀ちゃんと使われていない部室を目指した。部室へ潜り込むと鍵をかけて2人だけになる。「そのまま見ててよね」と堀ちゃんが言うので「後ろを向くよ」と返すと「ダメ!全部見てて!」と堀ちゃんが言う。「着替え終わるまで全部見てて!」と彼女は必死の訴えをする。その勢いに気圧されて頷くと、彼女は着替えを始めた。素肌を曝すのには相応の覚悟がいるはずだ。僕は彼女の裸体を見せつけられると言う事態に、ただ唖然としていた。堀ちゃんは下着を脱ぐ前に「Y、あたし綺麗?」と聞いた。黙って頷くと「触って」と言って右手を取ると左胸に押し当てる。「中島ちゃんとどっちが大きい?」と言うので「堀ちゃんの方が大きいよ」と言うとそのまま僕の胸に飛び込んで来た。「Y、あたしだって女だよ。抱いてよ!もっと触って見てよ!」堀ちゃんはずっとため込んでいた思いをぶつけて来た。ただ、ここまでする彼女の真意を計りかねた。「Y―、あたしだけを見てよ」と堀ちゃんは言うと首に腕を回してキスして来た。「反則だよ、堀ちゃん」僕が何とか言うと「水着なんてどうでもいいの。ずっと好きだったの」と言うと背伸びをして肩に顔を乗せた。「誰もこんな事してないでしょう。あたし本気だから」と堀ちゃんが耳元で囁く。こうして僕と堀ちゃんだけの“秘密”が生まれた。堀ちゃんの素肌は柔らかく綺麗だった。僕等が部室を出たのは午後の授業の開始直前だった。
梅雨に入ると“向陽祭”の打ち合わせが佳境を迎えた。“総合案内兼駐車場係”の打ち合わせも、割り振りや無線機の使用法など多岐に渡るものとなった。僕は昇降口に設置される“総合本部”の担当責任者に抜擢され、お客の誘導・案内と共に無線機を用いての車両誘導の指揮を執る事になった。サブはさちと山本と脇坂を指名した。4人での打ち合わせでは、雨になった場合も想定してのシュレーションに多くの時間をかけた。「雨になったら校庭は使えない。その場合は舗装路に縦列駐車させてスペースを確保するしか無いな。安全確保の観点からも出来る限り詰めるしか無いが、誘導員が足りなければ我々も出るしか無くなる。その場合は、さちに本部を任せて男3人で応援するしかあるまい」僕は校内の地図を見ながら言った。「Y先輩、先生達の車を移動させる事は可能ですか?」山本が指摘した。「それは当然だ。“向陽祭”の期間中は先生方の車は乗り入れ禁止になるはずだ。それにしてもスペースが足りないのは困ったな。最悪の場合は昇降口近辺まで詰める以外に手が無い。晴れるのを祈るしか無いな!」僕は地図を睨んでため息を付いた。「まあ、梅雨明け後ですから、夕立の心配だけをして置けばいいんじゃないですか?」脇坂は楽観的だった。「最悪を想定して置けば、どうなっても対処法は捻り出せる。いざと言う時の備えは取り過ぎる事は無い!祭りを動かすにはそれなりの準備は欠かせない。面倒でもあらゆる事に気を回せ!」僕は脇坂の背中を叩いた。「でも、このシフト表を見るとお昼も簡単には動けないわね。結構ハードなスケジュールじゃない?」さちが言う。「初めての外部公開だからな。一般来場者の数にも左右されるが、蓋を開けて見なきゃ分からないことだらけだし、ハードになるのも仕方ないよ」さちの肩に手を置いて僕は返した。「今年を下敷きにして来年の計画が練られるんですから、最初の1歩である今年は仕方ない側面は多々ありますよね?」山本が言う。「まあ、そうだな。やって見なきゃ分からない事も多い。当日、慌てないようにしっかりと準備して置こう。今日はもう遅いから、これで解散とする。次回は具体的に校舎周りを見て回ろう」そう言って僕は打ち合わせを閉じた。「さち、すっかり遅くなった。急いで帰ろう」「うん、支度急ぐね」僕とさちは慌ただしく教室へ戻り帰り、支度を済ませると“大根坂”を下り始めた。竹ちゃんと道子はまだ残っている様だったが、他のみんなは帰宅した様だった。歩き出して直ぐ「Y、ちょっと待って」さちが言った。校舎の陰へ引きずり込まれると、さちは思いっ切り背伸びをするとキスして来た。僕もさちの頬を包んで離すまいとする。しばらく唇を重ね続けてからしっかりと抱き合う。「さち、どうした?怖いのか?」と聞くと「うん、怖くてたまらない!堀ちゃんに取られたくない!」と涙声で言う。「堀ちゃんに何か言われたのか?」と聞くと「堀ちゃん、“本気でYを奪い取ってみせる!”って言いに来たの!あたし、怖くて怖くて・・・」さちは声を殺して僕の胸で泣いた。「さち、いくら堀ちゃんが本気でも、僕はさちしか考えられない。どんなに言われても、誘惑されてもいつも見ているのは、さちだけだよ」髪を撫でてやりながら、さちに語り掛ける。さちは小さく頷くと涙で濡れた顔を上げて「誰が何をしても、あたしはYを信じてる。だから、たまにはこうして抱きしめてよ!」さちの涙を拭いてやりながら「分かった。好きにして構わないよ。“向陽祭”が終わるまではこう言う時間が増える。毎日キスしてから帰るか?」と聞くと、さちは何度も頷いて抱き着いて来た。「Y、あたしを置いて行くな。一人にしないで。ちゃんと抱きしめてよ!」と震えながら訴えた。「怖がらなくていい。僕の心に住んでいるのは、さちだけだ。一緒の時間を大切にしよう。恐かったらキスしよう。もっとわがままを言いなよ」「言ってもいいの?」さちは僕を見上げて言う。「さちなら許す。何ならみんなに言うか?“さちは僕の彼女だ”って」「そこまではしなくていい。ただ、堀ちゃんには気を付けてよ。彼女本気でさらって行くつもりだから」さちは真顔で言った。「堀ちゃんとは2人だけにならない様に気を付けるよ。4人一緒なら彼女も手出しはしないだろう?」「うん、そうしてくれる?」「ああ、これまで以上に気を付ける」さちの顔が少し明るくなった。「手を繋いで帰ろう。もう遅いからさ」僕はさちと手を繋いで歩き出した。「Y、あたし信じてるから」さちはそう言って前を向いた。「さち、僕は、さちしか見えない。こうやっていつまでも歩きたい」偽らざる気持ちだった。堀ちゃんの気持ちも分かるが、僕の心は去年から揺らいではいなかった。「大人になっても、こうやって母校まで歩きたいな。Y、どこまでも追いかけて来てよ」「ああ、必ず追いかけて行く」僕等は駅までを1歩1歩をかみ締める様に歩いた。“駅がもっと遠くにあればいいのに”と思いつつ、時折腕を組んで歩きつづけた。
教室の片隅では長官以下査問委員全員が協議を続けていた。「参謀長、担任は何と言って居った?」すかさず長官が誰何する。僕は聞いたままを話して「学校側としては“名を捨て実を取った”つもりでしょうが、今回ばかりは嫌な予感がするんですよ。大学受験並みの事をやられたら、如何にハードルを高くしても突破される危険性が高い。杞憂であればいいんですがね・・・」と答えた。「相変わらず鋭い分析力だな参謀長!見解は的を射ているよ!原田からの情報では“家庭教師”を迎えて相当な事をやっているらしい」と伊東が言った。「“棒高跳びでもクリア出来ない高さ”とは言っても、ロケットエンジンがあればクリア出来る。菊地嬢は今回こそは“返り咲く”つもりだろう!こちらとしてもこの事を前提に対策を立てねばならない!来週末の試験日まで残された時間は少ない。やれるとしたら、妨害工策しか無いが原田と小佐野からの逆情報だけでは足りんな!伊東、“家庭教師”の足止めが出来ないか原田に依頼しろ!目下、ヤツにとっても目障りな存在である菊地嬢の事だ。嫌とは言うまい」長官が伊東に指示を出した。伊東は黙して頷くと教室を飛び出して行った。「しかし、今回は打てる手が限られますね。現実路線を行くなら3期生達に楔を打ち込んで置きますか?」僕は“復学”を前提とした路線を提起してみた。「うむ、石川に山本に脇坂を呼んで言い渡して置いた方がいいな!参謀長、そちらは任せる。女子に対する工作は西岡に指揮を執ってもらおう」長官は直ぐに同意した。「確かに打てる手は限られておる。だが、無策で待ち受けるよりは“非常線”を張り巡らせて置く事が、最大の防御策となる。策は我々で図り、詳細はクラス全員には通知しない。最も危険なのはパニックだ!今回の話は査問委員以外に口外するな。箝口令を敷く!」長官が宣言すると全員が頷いた。こうして“復学工作”の件は、水面下での動きに留められた。
向かえた試験当日の日曜日。誰に言われた訳でも無く、査問委員会のメンバー全員が“大根坂”の麓の神社に集結した。みんなでクラスの安寧を祈願すると山の上を見た。「始まったな。跳ね返さるのを祈るばかりだ」長官が静かに言い出した。「そうですね。八百万の神々にお願いするしかありませんよ」僕も自嘲気味に言った。「学校側の良心を信じるしかねぇし、1教科のみ11点だけ失点してくれればいいんだ」竹ちゃんが拝殿へもう一度向かった。久保田も続いた。祈りは届いたのか?結果は明日発表される事になっていた。“我らに安寧を”僕等には祈りしか無かった。
そして月曜日、僕は無理矢理に自転車を走らせて“大根坂”を駆け上った。息が荒くなり大汗をかいてフラフラになったが、どうしても確かめずにはいられなかった。昇降口を入って正面の掲示板を見る。1枚の紙が掲示されていた。
「1年6組 菊地美夏。右の者、“復学”試験に不合格となったため、“無期限停学”処分を継続するものとする。学校長、宮沢〇〇」
「セーフか!」これ以上の言葉は出なかった。外へ出ると水道で顔を洗い直し、水をガブ飲みして体を冷やした。自転車のサドルに座ると息を整える事に努め、後続のみんなを待った。「Y-、大丈夫かー!」道子の声が響いた。「おー!大丈夫、セーフだ!」僕が返すと竹ちゃんと道子が抱き合って喜んだ。「Y-、無茶をしおってからに、とにかくこれ飲んで!」と堀ちゃんがポカリのボトルを差し出して、ノートを取り出して風を送ってくれた。雪枝と中島ちゃんはハンカチを濡らして顔と額に当ててくれる。さちは傘を開いて日陰を作ってくれた。竹ちゃんと道子は改めて掲示板を見て雄叫びを上げていた。「参謀長、やったな!」竹ちゃんが握手を求めて来た。道子とはハイタッチで祝福を交わした。「ねえ、何があったのよ?」堀ちゃんが聞いて来る。「“復学”阻止成功だよ。掲示板を見れば分かる」ようやく整った息で答えると「また、菊地さん絡みなのね?Y達が水面下で動いていたヤツか」さちが言うと「魔女の復帰はまたしても阻止されたのね?3期生としての“復学”の芽は消えたって訳ね!」と中島ちゃんが言う。「僕等が卒業するまで“閉門”は決定的だよ。これでまた不安の種が消えた」僕はしみじみと言う。何とか体が落ち着いたところで、昇降口を抜けて改めて掲示板に見入ると「懲りない性格の彼女にとって大打撃だよね」と雪枝が言う。「ああ、これで4期生の芽も消えただろうな。詳しくは先生から説明があるだろう」僕等は教室へ向かった。いつもの見慣れた光景を守れた事は大きかった。雪枝が言った通り、菊地嬢にとっては大打撃になったに違いない。「参謀長、どの程度の勝負になったのかな?」竹ちゃんが机に鞄を投げると聞いて来た。「多分だけど、際どい勝負ですり抜けたってとこだろうな。彼女だって馬鹿じゃ無い。1~2教科での失点が響いただろう」僕が返すと「際どいとこなら“抗議”して来るだろう?学校側はどう出るかな?」と更に突っ込んで来る。「校長が拒否するし、抗議を受けても却下するだろうな。90点の壁を破れなかった事は覆らない。学校としても“譲歩させられた”上での試験だ。はねつける理由はいくらでもあるさ」「いずれにしても、先生からYに説明があるでしょ?それを待つしか無くない?」道子が助け船を出してくれた。「竹ちゃん、みんなが知りたがってる話は、キチント聞いて来る。呼び出しを待ちましょう」と言うと「早く白黒を付けたいぜ!アイツの今後はクラスの浮沈に関わるからな!」と鼻息荒く言う。確かにカギは彼女の今後にかかっている。僕はレディ達と静かに話しながら呼び出しを待った。
ホームルームの前、僕は先生からの呼び出しを受けた。「結果から言えば¨惨敗¨だった。まともに授業を受けておらんのだから当然の結果だが、50点台では話にもならん!校長も呆れ果てて¨入試からやり直せ!¨と怒り心頭だったぐらいだよ!」中島先生も投げやり気味に言った。「では、まともに点が取れた教科は1つも無しですか?」僕は慎重に探りを入れる。「ああ、最高で58点、最低が52点、試験をやった意味すら感じない程の¨大惨敗¨に終わった。3期生どころか4期生として受け直した方が早いだろうな。菊地の両親にも告げたが、¨一旦退学して、受け直す事を真剣に考えろ!¨と思いっ切り釘を刺してある。近々、返事はあるだろうが、現状の¨無期限停学¨よりは現実的な選択でもある。菊地本人も肩を落として泣いておったから、今回ばかりは、嫌と言う程身の程を思い知っただろうな!」先生は眠そうな表情で言った。「学校側の判断は、菊地側にも伝えられて了承されているのですね?」「了承も何も¨試験で90点未満なら無期限停学は解かない¨との条件で和解したのだから、文句を付ける隙すら無い。政治的圧力で教育現場を歪めた責任は向こうにある。我々は和解に応じて“復学”試験を行ったのだ。今度は菊地側が誠意を見せる番だよ!」先生は当然の事だと言わんばかりに答えた。「では、3期生としての¨復学¨の芽は消えたと解釈して宜しいでしょうか?」「うむ、確実に芽は摘まれた。最短でも4期生からだ。だが、校長は¨余程の反省の態度が見られなければ、入試を通っても入学許可はしない¨と明言しておる。ヤツが戻る椅子は消え失せたと断言してもいいだろう。お前達には心配をさせたが、水際で取り押さえ、跳ね返した。今後、如何なる手を繰り出して来ても学校側として取り合う意思は無い!これは校長の意思であり、全教職員共通の認識だ。彼女に残された道は¨退学¨しか無い!」先生は力強く言い切った。「では、“菊地美夏”は本校に現れる事は2度と無い訳ですね?」「安心しろ!100%あり得ない!ヤツは葬り去られた。お前達の懸念は払拭されたのだ。今後は一層勉学に集中しろ!」先生の顔にも安堵の表情が出ている。僕は胸のつかえを降ろすと教室へ戻った。
1時間目の終了後、長官以下、査問委員が教室の片隅に集まった。「参謀長、学校側の見解を説明してくれ!」と長官が興奮気味に問うた。僕は聞いたままを説明して「“菊地美夏”は本校に現れる事は2度と無いと断言しても過言ではありません!」と言って報告を終えた。しばらく誰も喋らなかった。「感無量だな。ついにヤツを葬り去ったのか」久保田が沈黙を破った。「“大惨敗”の上に校長の意思の固さを考えれば、帰り道は完全に閉ざされたな」伊東もポツリと言った。「やっと“終戦”か。長かったね」千里も感慨に浸っていた。「でも、本当に“終戦”なのかな?奥の手とか無いよね?」千秋が唯一懸念を示した。「我々が卒業しても“復学”は叶わない。受け直しをするにしても5期生以降になるだろう。“菊地美夏”が我々に関わる事はもう無いのだ。奥の手などあるはずも無い!」長官が静かに言い切った。「ところで、“K査問委員会”はどうする?」竹ちゃんが聞いた。「解散させには惜しい組織だ。“K”の字を取り払って“査問委員会”として存続させよう。クラスの方針決定には必要不可欠な組織だ」長官が微かに笑って言った。「大団円だ!」竹ちゃんが言うと全員がハイタッチをして祝福した。“菊地美夏”クラスを常に混乱に陥れた魔女は、“退学”を選んで何処とも無く消え去った。僕等も彼女の存在を思う事はその後無かった。
梅雨入り前、クラスの男子達は“プール授業”について語り合っていた。昨年9月にようやく完成を見たものの、季節を逸したために昨年は体育で水泳の授業は実施されなかった。今年は、体育担当の浦野先生が“ビキニを着れば無条件で5を付ける”と明言したため、野郎共は色めき立ったのだ。その日の昼休みに「あー、もう嫌だ!ビキニなんて着られる訳無いじゃない!」有賀がかぶりを振って否定する。「そうよ!下半身デブを見られるなんて耐えられない!」千秋も悲鳴を上げた。クラスでビキニ有力候補と目された2人が早々に脱落宣言をした。生物準備室では「ビキニは無理だけどワンピースなら何とか着られそう。Y、眼の保養をさせてあげるね!」「誰が一番綺麗か判定してよね!」雪枝と中島ちゃんは前向きだった。「Y、ちょっといいかな?」堀ちゃんが僕を教室前の廊下に引きずり出す。「どうしたの?」と聞くと「正直に答えて。あたしの水着姿見たい?」少しうつむき加減で聞いて来る。「無理強いはしないよ。でも、男としては見たいのは確かだね」と言うと「あたし、ワンピースの水着を新調したの。Yにだけは見て欲しいの!今から部室へ付いて来てくれない?」と僕の顔を伺いながら言った。「今からか?堀ちゃんもしかして、水着持って来たの?」と聞くとコクリと頷いた。余程の覚悟で言いに来た事は察しが付いたし、ここで蹴ったら彼女に恥をかかせる事になる。僕は腹を括ると「よし、行くか」と返した。「内緒にしてよね」と言うと堀ちゃんはロッカーから水色の包みを取り出した。僕は準備室に一声かけてから、堀ちゃんと使われていない部室を目指した。部室へ潜り込むと鍵をかけて2人だけになる。「そのまま見ててよね」と堀ちゃんが言うので「後ろを向くよ」と返すと「ダメ!全部見てて!」と堀ちゃんが言う。「着替え終わるまで全部見てて!」と彼女は必死の訴えをする。その勢いに気圧されて頷くと、彼女は着替えを始めた。素肌を曝すのには相応の覚悟がいるはずだ。僕は彼女の裸体を見せつけられると言う事態に、ただ唖然としていた。堀ちゃんは下着を脱ぐ前に「Y、あたし綺麗?」と聞いた。黙って頷くと「触って」と言って右手を取ると左胸に押し当てる。「中島ちゃんとどっちが大きい?」と言うので「堀ちゃんの方が大きいよ」と言うとそのまま僕の胸に飛び込んで来た。「Y、あたしだって女だよ。抱いてよ!もっと触って見てよ!」堀ちゃんはずっとため込んでいた思いをぶつけて来た。ただ、ここまでする彼女の真意を計りかねた。「Y―、あたしだけを見てよ」と堀ちゃんは言うと首に腕を回してキスして来た。「反則だよ、堀ちゃん」僕が何とか言うと「水着なんてどうでもいいの。ずっと好きだったの」と言うと背伸びをして肩に顔を乗せた。「誰もこんな事してないでしょう。あたし本気だから」と堀ちゃんが耳元で囁く。こうして僕と堀ちゃんだけの“秘密”が生まれた。堀ちゃんの素肌は柔らかく綺麗だった。僕等が部室を出たのは午後の授業の開始直前だった。
梅雨に入ると“向陽祭”の打ち合わせが佳境を迎えた。“総合案内兼駐車場係”の打ち合わせも、割り振りや無線機の使用法など多岐に渡るものとなった。僕は昇降口に設置される“総合本部”の担当責任者に抜擢され、お客の誘導・案内と共に無線機を用いての車両誘導の指揮を執る事になった。サブはさちと山本と脇坂を指名した。4人での打ち合わせでは、雨になった場合も想定してのシュレーションに多くの時間をかけた。「雨になったら校庭は使えない。その場合は舗装路に縦列駐車させてスペースを確保するしか無いな。安全確保の観点からも出来る限り詰めるしか無いが、誘導員が足りなければ我々も出るしか無くなる。その場合は、さちに本部を任せて男3人で応援するしかあるまい」僕は校内の地図を見ながら言った。「Y先輩、先生達の車を移動させる事は可能ですか?」山本が指摘した。「それは当然だ。“向陽祭”の期間中は先生方の車は乗り入れ禁止になるはずだ。それにしてもスペースが足りないのは困ったな。最悪の場合は昇降口近辺まで詰める以外に手が無い。晴れるのを祈るしか無いな!」僕は地図を睨んでため息を付いた。「まあ、梅雨明け後ですから、夕立の心配だけをして置けばいいんじゃないですか?」脇坂は楽観的だった。「最悪を想定して置けば、どうなっても対処法は捻り出せる。いざと言う時の備えは取り過ぎる事は無い!祭りを動かすにはそれなりの準備は欠かせない。面倒でもあらゆる事に気を回せ!」僕は脇坂の背中を叩いた。「でも、このシフト表を見るとお昼も簡単には動けないわね。結構ハードなスケジュールじゃない?」さちが言う。「初めての外部公開だからな。一般来場者の数にも左右されるが、蓋を開けて見なきゃ分からないことだらけだし、ハードになるのも仕方ないよ」さちの肩に手を置いて僕は返した。「今年を下敷きにして来年の計画が練られるんですから、最初の1歩である今年は仕方ない側面は多々ありますよね?」山本が言う。「まあ、そうだな。やって見なきゃ分からない事も多い。当日、慌てないようにしっかりと準備して置こう。今日はもう遅いから、これで解散とする。次回は具体的に校舎周りを見て回ろう」そう言って僕は打ち合わせを閉じた。「さち、すっかり遅くなった。急いで帰ろう」「うん、支度急ぐね」僕とさちは慌ただしく教室へ戻り帰り、支度を済ませると“大根坂”を下り始めた。竹ちゃんと道子はまだ残っている様だったが、他のみんなは帰宅した様だった。歩き出して直ぐ「Y、ちょっと待って」さちが言った。校舎の陰へ引きずり込まれると、さちは思いっ切り背伸びをするとキスして来た。僕もさちの頬を包んで離すまいとする。しばらく唇を重ね続けてからしっかりと抱き合う。「さち、どうした?怖いのか?」と聞くと「うん、怖くてたまらない!堀ちゃんに取られたくない!」と涙声で言う。「堀ちゃんに何か言われたのか?」と聞くと「堀ちゃん、“本気でYを奪い取ってみせる!”って言いに来たの!あたし、怖くて怖くて・・・」さちは声を殺して僕の胸で泣いた。「さち、いくら堀ちゃんが本気でも、僕はさちしか考えられない。どんなに言われても、誘惑されてもいつも見ているのは、さちだけだよ」髪を撫でてやりながら、さちに語り掛ける。さちは小さく頷くと涙で濡れた顔を上げて「誰が何をしても、あたしはYを信じてる。だから、たまにはこうして抱きしめてよ!」さちの涙を拭いてやりながら「分かった。好きにして構わないよ。“向陽祭”が終わるまではこう言う時間が増える。毎日キスしてから帰るか?」と聞くと、さちは何度も頷いて抱き着いて来た。「Y、あたしを置いて行くな。一人にしないで。ちゃんと抱きしめてよ!」と震えながら訴えた。「怖がらなくていい。僕の心に住んでいるのは、さちだけだ。一緒の時間を大切にしよう。恐かったらキスしよう。もっとわがままを言いなよ」「言ってもいいの?」さちは僕を見上げて言う。「さちなら許す。何ならみんなに言うか?“さちは僕の彼女だ”って」「そこまではしなくていい。ただ、堀ちゃんには気を付けてよ。彼女本気でさらって行くつもりだから」さちは真顔で言った。「堀ちゃんとは2人だけにならない様に気を付けるよ。4人一緒なら彼女も手出しはしないだろう?」「うん、そうしてくれる?」「ああ、これまで以上に気を付ける」さちの顔が少し明るくなった。「手を繋いで帰ろう。もう遅いからさ」僕はさちと手を繋いで歩き出した。「Y、あたし信じてるから」さちはそう言って前を向いた。「さち、僕は、さちしか見えない。こうやっていつまでも歩きたい」偽らざる気持ちだった。堀ちゃんの気持ちも分かるが、僕の心は去年から揺らいではいなかった。「大人になっても、こうやって母校まで歩きたいな。Y、どこまでも追いかけて来てよ」「ああ、必ず追いかけて行く」僕等は駅までを1歩1歩をかみ締める様に歩いた。“駅がもっと遠くにあればいいのに”と思いつつ、時折腕を組んで歩きつづけた。