編入試験当日、天気は雨だった。“雨降って地固まる”の諺通りなら、“悪魔に魅入られた女”は舞い戻って来る事になる。ただ、妙な確信はあったのだ。“最後まで分からない!諦めるな!”と言っている声が聞こえたのだ。八百万の神々からの声なのか?自らの声なのか?はっきりとは分からなかった。僕は静かに机に向かって黙々と予習をこなしていった。
翌月曜日、慌ただしく朝食を済ませると、僕は自転車を全速力で漕いで学校を目指した。“大根坂”をよじ登り、荒い息のまま掲示板に見入った。だが、菊地に関する掲示物は無かった。「公式発表はまだか!」取り敢えず水道で顔を洗って、汗を拭い階段をヨタヨタと昇る。教室の机に鞄を投げてから、生物準備室のドアの前に座り込んだ。合格か?否か?知る術は先生を捕まえるしか無かった。荒い息は徐々に治まり汗も引いた頃、階段を昇って来る足音が聞こえた。「Y!大丈夫か?顔色が悪いぞ!」中島先生が声をかけてくれる。「いえ、大丈夫です。大急ぎで登校したので、無理をやっただけでいすから」息を整えながら返すと「“合否”が気になったか?ともかく中へ入れ!今、水を出してやるから」先生からコップ1杯の水を受け取ると、ゆっくりと飲んで乾いた喉を潤す。「お前がこれ程焦るのは無理もない事だが、己の体力を過信するな。お前に倒れられると校長が煩くて敵わん!さて、昨日の結果だが、編入試験は途中で“打ち切り”になった。不正が発覚したので3教科の試験が終わった段階で差し止めたのだ。恐らく、現在通っている高校も追われる事になるやも知れん!」先生の口から出た言葉を僕は直ぐには理解できなかった。「不正行為とはもしかして“カンニング”とかですか?」「ああ、まさしく“カンニング行為”だ。後で調べた結果、筆記用具のありとあらゆる部分から“カンニングペーパー”が出て来た。腕時計の裏にも貼り付けてあったぐらいだ」先生は呆れ顔で僕の正面のソファーに座った。僕のコップに水を注ぐと「不正を見抜いた経緯だが、実は偶然でな。数学の問題に1期生の総合模試の問題が誤って入り込んでいたのだが、菊地は何故か正解を取ったのだ。履修範囲外にも関わらずな。初めは自主学習の成果かと思ったが、問題用紙を見て“これは妙だ?”と気付いたんだ。お前達も分かると思うが、普通問題用紙には線を引いたり、計算式を書いたりするはずだよな?だが、問題用紙は真っ新なままだったんだ。計算式すら立てていない!そこで“これは妙だ?”と改めて気付いて、英語と国語の問題用紙も洗い直した。結果は同じだった。それで、休憩中に筆記用具を改めたところ、続々と“カンニングペーパー”と出たのだ。その場で菊地本人を問い詰めると“カンニング行為”を認めたので、以後の日程を打ち切って追い返したのだ!校長は直ぐに県教委と推薦先の県と学校に電話を入れて抗議した。“カンニングペーパーを用いるとは何事か?!”とな。向こうも二の句が継げぬくらいの勢いで怒鳴り散らした。公式の発表はこれからになるが、不正を働いた以上、編入はあり得なくなったよ。“私の眼が黒い内は、何があろうとも菊地の高校受験・編入・卒業は阻止して見せる!”と校長も湯気を立てておったぐらいだ。推薦先の高校も“この様な不正行為を働いた以上、本校に留め置くつもりはありません!”と言い切った。“菊地美夏の高校生活”は終わった様なものだ!」「では、もう彼女はどこの学校からも追放されると言ってもいいですか?」「ああ、間違いなく“破門状”が出回るから、県内はおろか隣接県も含めて追放される。もう、ヤツを受け入れる学校は無い!安心しろ。脅威は過ぎ去ったのだ」「自滅するとは、何と愚かな・・・」「同情の余地は無い!これだけの“悪行”に手を染めたのは、菊地本人だ!自ら道を踏み外したヤツに更生が見込めるか?社会は甘くは無い。義務教育は済ませたのだから、働くなりして己の愚かさを悔いればいい。Y、クラスの上層部にはお前から伝えて置け!菊地の脅威は跳ねのけたとな!ともかく、水を飲んで体を落ち着かせろ。朝は食べて来たのか?お前の体調管理は、特に校長からも厳しく言われておる。確か、貰い物のクッキーがあったはず。腹を少しでも満たして行け。下手に保健室送りにでもなったら、校長が煩いからな」先生はアールグレーを淹れるとクッキーも並べて食べる様に促した。全力を使い切った体にはちょうどいい栄養補給になった。
「万歳―!」「ヒュー!ヒュー!」「遂にやったぞー!」早めに登校していた査問委員会のメンバー全員が踊り狂った。僕が告げた“結果報告”を受けて各自に明るさが戻った。一通りのハイタッチを終えると「諸君、長かった戦いは終わった。我々はクラスを仲間を守り抜いた!ここに“対菊地戦争”の勝利と終結を宣言する!」と長官が高らかに言った。「万歳―!」「ヒュー!ヒュー!」長官を中心にみんなが踊り叫ぶ。「参謀長、長かったが我々が押し切ったな!ご苦労だった!」長官が握手を求めて来た。「ええ、苦しい中、みんな良く頑張ってくれました。全員で掴んだ勝利ですよ!」僕等はしっかりと手を握り合った。「俺は原田に一報を入れて来る。ヤツも安堵するだろうよ!」伊東が走り出す。「勝利を記念して、毎月の今日を“戦勝記念日”にしねぇか?」竹ちゃんが浮かれて言い出す。「いいわね!忘れないためにもそうしましょう!長官、今日から毎月“戦勝記念日”にするわよ!」千里が長官を捕まえて言っていた。道子と千秋が黒板に“戦勝記念日”とカラフルに書き上げた。登校して来たクラスメイト達も笑顔になった。あちこちでハイタッチが繰り返されている。「どうした?勝ったのにそんなシケたツラして?“破門状”が出回ればヤツは終わりだよ。今度こそ年貢の納め時さ!」滝も笑顔で行って来る。「苦いな。こんな形で終わるなんて。せめてもう1度相対してから終わりにしたかったよ」僕がそう言うと「なじり合いになってもか?どうやってもヤツの腐り切った性根は変わらん。非難の応酬になるだけさ。俺はこれでいいと思うがね」滝はサバサバと言う。僕の心には穴が開いた感じが残った。相容れない間柄ではあったが、歳も同じ同級生だったのだ。彼女が何処ともなく消えたのは間もなくだった。家族共々“夜逃げ”同然に消えたと言う。こうして“菊地美夏”と言う女の子は書き消された。今は生死すら不明のままだ。
2時間目の授業が終わった時、僕は堀ちゃんに呼び止められた。教室前の廊下に出ると上目遣いで僕を見ながら「Y、修学旅行が終わったら“誰にも邪魔されないとこへ行こう”って言ったけど、あの話、延期にしてくれないかな?」「どうして?」「これを見て!」堀ちゃんがミニアルバムを差し出した。そこには“別人の堀ちゃん”が写っていた。「うーん、さすがは松田の作品だ!文句の付けようが無い。それにしても、こんな表情の堀ちゃんは初めて見るよ。この表情を切り取れるのは“常に背を追っていた”からだろうな。1枚1枚から思いが溢れてる。あっ、この2枚は僕の撮影したヤツだ」「松田君が“Yに渡してくれ”って言ってた。それでね、あたし松田君と話して見て自分の事に自信が持てる様に思えて来たの。これ見て!」堀ちゃんが指さしたのは、浴衣姿に薄化粧をしたカットだった。「綺麗だな。それ以上の言葉が出ない」僕は唸るしかなかった。「これを撮るために色々と試したんだけど、作品を作るって楽しいなって思えて、松田君のレンズの前に立つのがとても楽しいし“次はどんな表情をしようか?”なんて考えるとウキウキするの。だから・・・」「しばらく松田と行動を共にしたい?」と僕がセリフを引き取ると、堀ちゃんは頷いた。「でも、お茶会や任務は続けたいの。あたしワガママかな?」「そんな事無いよ。僕等は唯一無二の間柄だろう?離れていても心は常に共にある。ちょっと出張して来ればいいんだ。疲れたら、困ったら、迷ったら戻ってくればいい」「Y、いいの?長い出張になるかも知れないよ!」「僕等の家は、いつでも開いてる。自分を松田を信じて行ってくればいい。僕も困ったら聞きに行くけど、それは承知してくれよ!」「うん、他ならぬYの頼みは断らない。いつでも聞きに来て。ノートも貸し出すし、あたしの苦手分野は教えてもらいに行くから。じゃあ、あたし行って来る!Y、家を守ってて。必ず戻るから!」「よし、行って来い!松田に“大切にしなきゃ後で倍返しに行く”って言っといてくれ!」「分かった。Y、ありがとう!」堀ちゃんは頬に軽くキスをすると教室へ戻った。「卒園か。これでやっと“保育園”を閉園に出来るな」僕はポツリと言うとロッカーから参考書を引っ張り出した。
“対菊地戦争”の終結は、2期生全体に良い影響をもたらした。原田政権が安定し順調に各施策が随時軌道に乗った事で、校内に新しい風が吹き新時代の到来を2期生・3期生共に実感する事になり、各施策の効果も眼に見えて現れ始めた。最も恩恵を受けたのは前生徒会長から“追放”された3期生の男子達だろう。余裕が生じた事で、原田は彼らの“復権”を更に前倒しにして実施したのだ。これにより“異常事態”は解消され、全生徒が生徒会に復帰する事となり、本来有るべき姿を取り戻すに至った。また、上田、遠藤を中心とした新3期生クラス委員達は、着実に改革の歩を進めており、全クラスで過半数を上回る勢力を獲得して地盤強化を推進していた。僕と西岡達の“特命任務”も終盤を迎え、最後の“見えない障壁”の突き崩しを残すのみとなった。すっかり秋風が吹き抜ける季節を迎えたある日、「いよいよ最後の策を実行する段階に来ました。些か不純な手口ではありますが、バレンタインを餌に“日和見”を決め込んでいる者達を吊り上げにかかります!これで、各クラスの8割を確保し揺ぎ無い体制は完成となります!」と西岡が言って来た。「そうか、やっと基礎工事が終わるな。次は建屋の建設だが、それは上田や遠藤達に任せよう。既に長期政権への道筋も付けてある。そろそろ、我々の手を離れる時が来たらしいな。彼女達も自立への道を歩んでいる。もう、ここまで来れば後戻りはあるまい。西岡、随分と苦労をかけたが、任務はほぼ完了した。ありがとう。策を授けたら、見守りに徹して表立った行動は控えよう。彼女達なら大丈夫だ!」僕は握手を求めた。西岡は一瞬躊躇したが、僕の手を握りしめた。そして「参謀長、あたしはこれからも彼女達を見守って行きます。異変があればご相談に乗っていただきますが、完全に手を引かれますか?」と聞いて来た。「“完全に”はまだ無理だろう?表立っての行動を控えるだけだ。本来の陰に戻るだけ。僕は指揮を執るより、作戦を練る方が得意だ。言わば縁の下の存在。陰から彼女達を支援するのは当然だし、必要なら策も授けよう。だが、彼女達との接触は差し控えるよ。今は我々も落ち着いて居られるが、この平和が長く続くとは限らないし保証もない。少し体を休めて置くのも悪くは無いだろう?中島先生からも“お前の体調管理には誰よりも手がかかるし、校長も注視している。いい加減策謀に関わるのを止めて手を抜け!”と釘を刺されたばかりだ」と返すと「確かに、参謀長は働き過ぎです!少しは休息して下さい。あたし達クラスの女子の宝を疲弊させたと言われるのは心外ですし、上田や遠藤達の餌食になどさせられません!雛鳥に横取りされるのは論外です!」と彼女はムキになって言う。「分かった。そう怖い顔をするな。いずれにしても、来月初には“任務完了報告”を出さねばならない。今回を持って1つの区切りとする。それは承知してくれ」「はい、上田や遠藤にもそう伝えて置きます。では、またご報告に上がります」と言うと西岡は身を翻して東校舎へ向かった。髪が長くなり、スラリとした容姿に似合っている。彼女なら将来は部課長クラスまで出世するかも知れないとふと思った。「西岡が居てくれたから“3期生再生計画”は成功した様なものだ。彼女の功績は称えられるべき。報告書には細大漏らさずに載せてやらねばなるまい」僕はそう呟いて彼女の後姿に見入っていた。
“災害は忘れた頃にやって来る”と言うが、その年の10月は“遅れて来た台風”によって大雨の見舞われる事になった。ちょうど週末にかけて台風は通過していったが、翌月曜日に僕達は大変な目に遭ってしまった。“ホテル向陽”に通じる唯一の道が朝方に法面崩落を起こして車両の通行が不可能になったのだ。僕達が登校した時刻には路面に亀裂が入っている程度であったが、その15分後に路肩は崩落し学校は事実上“孤立”する事態になった。査問委員会のメンバーと僕等は、割と朝早くに“大根坂”を登って来るが、後続の生徒達は足止めを喰らう事になった。学校側も事実確認に手間取り、生徒の登校を止めるまでにかなりの時間を要したため、危険地帯を潜り抜けて教室へ辿り着いた生徒は多数いた。“臨時休校”が発表されたのは、午前8時を過ぎてからになってしまい、止む無く僕等は家へ引き返す事になったのだが、崩落現場を潜り抜ける必要に迫られた。う回路はあったが、川が増水しており途中の橋は渡れなかった。僕等は集団になり、住宅地を跨いで街中を目指した。「どうなってるんだよ!来たはいいが“帰れ”はねぇだろう!」竹ちゃんの怒りは収まらない。「食料や水、毛布がなけりゃ下るしか無いよ。学校に留まっても、夕食や明日の朝メシが無いんだから。こう言う場合の備えが無いのが致命的だな!」僕が自虐的に言うと「電車もバスも当てにならないとしたら、駅でまた立ち往生だぜ!今日中に帰れればいいが?」と伊東も言う。「松本方面は大丈夫だろうけど、新宿方面が心配!道も寸断されてるとしたら、帰るに帰れなくない?」道子も言う。2期生・3期生合同のグループを急遽組んでいるから、集団してはかなりの人数になっている。西へ向かう方法はあるが、問題は東へのルートが閉ざされていないか?だった。深夜に降った大雨の影響は今になって現れているのだ。朝、学校へ来るときは良くても、今現在がどうなっているのか?を知る術が無かったのだ。実際、駅付近のバス停で聞いて見ると「2時間以上は待っているが来る気配が無い」との答えが帰って来た。不安を覚えつつも駅へ行って見ると、上下線共に“運転を見合わせ中。再開は未定”の看板が出ていた。「クソ!これじゃあ帰れねぇ!どうしろってんだ?」と竹ちゃんが毒づいた。駅員に聞き込みをして見ると、鉄橋が水に浸かり、その先も冠水している区間があると言う。排水が出来ても線路の点検が済まなくては電車は運行を再開しない。特に新宿方面は絶望的だった。「道路が渋滞してて、ここに辿り着く時間が読めないみたい!最悪だわ!」道子も、さちも、雪枝も答えは同じだった。自宅からの応援も期待できそうに無い。「こっちもダメ!寸断されてるみたい!」中島ちゃんも堀ちゃんも答えは同じだった。「さて、どうする?」伊東が思案に沈む。問題は川の増水だった。後、数時間は水位が下がる見込みはない。「参謀長、策は無いか?」竹ちゃんが尋ねて来る。“東西へ進む道は何処にある?”地図を思い出しルートを探す。だが、どうしてもクリア出来ない問題があった。僕は2人になれない事だ。しかし、可能性は無くは無い。「山本、脇坂、お前達は小佐野の家を知ってるよな?それと、小佐野のお気に入りの温泉も!」「ええ、あっ!そうか!」「あそこまで遡れば川底は遥か下、渡れますね!」「そうだ、遠回りにはなるが確実に川を渡って西へ向かうなら、大迂回もありだろう?後は、山腹に沿って町境を越えれば、各家から応援も呼べるはず。直ぐに人数把握にかかれ!地図は後で書いてやる。伊東、竹ちゃん、ハイキングに付き合ってくれ!旧道を歩いて東を目指す。長旅になるけど、道案内はやらせてもらうよ!」「けれど、Yの家とは完全に逆方向じゃない!帰りはどうするのよ?」道子が心配して聞いて来る。「なーに、自転車があれば帰りはずっと早く帰れるよ。実は、先週からここの駐輪場に自転車を置いたままなんだ。心配はいらないよ!」「じゃあ、歩いて突破するの?東西両方向共に!」中島ちゃんが驚いて口元を覆う。「そうさ、交通機関は麻痺しているけど、歩いて帰る事は出来る。座して待つよりは早く帰れるはずさ!」「いいわ、やろう!ただ待ってても助けは来ない。助けを呼べる場所まで歩いていけばいいじゃない!」道子が声を挙げると、みんなが頷いた。「じゃあ、神社の鳥居まで戻る!そこで別れよう。脇坂、自転車を出して来てくれ。山本はノートを貸せ。地図を書くから」慌ただしく準備が進められ、僕達の大キャラバンは神社の鳥居の前へ戻った。大鳥居の下へ再集結した者は、40名近くになった。これは、駅で右往左往していた10名も加わったからだった。「山本、脇坂、西部方面部隊の指揮を執れ!おおざっぱな地図はこれだ」僕は山本のノートを差し出した。「ここから真っ直ぐ西を目指せ。前ノ宮の前を通り抜けると橋に突き当たる。車道は無理かも知れないが、歩道橋は数10cm高い位置にある。ここを突破出来そうなら、強行突破しろ!そうすれば、体力を温存出来るし後が楽になる。もし、封鎖されていたら山へ向かって迂回するしか無いから、国道へ出てからバス停を頼りに北へ向かえ!ポイントはここだ。川さえ渡れば、向こうは緩やかな傾斜地だから長地小を目指して行けば、ルートは開ける。最悪の場合は、小佐野を頼れ!どうせブツブツと文句は垂れるだろうが、手は貸してくれるはずだ。長地へ出たら¨救助要請¨の電話をかけて、帰宅させればいいが、最後の1人に向かえに来るまで責任は果たせ!」「はい!」2人の表情が引き締まった。「中島ちゃん、堀ちゃん、松田、2人の補佐を頼む。無事を祈ってるよ!」「Yも無理しないでちゃんと帰ってよ!」中島ちゃんが叫ぶ。「よし、出発!」山本と脇坂に率いられた西部隊は西に向かって歩き出した。何度も振り返っては手を振る。「さて、東部部隊も出るか。長い道程だが、休みながら行こうか!」「参謀長、道順は?」竹ちゃんが聞いて来る。「旧道を辿って行けば、障害に当たる確率は下がるから、裏へ裏へと迂回しよう。4年前に探査した事があるから道順は分かってる。伊東と竹ちゃんを先頭に2列隊形を組もう。最後尾は、道子とさちと雪枝。僕は自転車で前後を見ながら移動するよ」「よし、我々も出発だ!」伊東の掛け声と共に東部隊も東に向かって歩き出した。西部隊が15名前後なのに対して、こちらは約25名の大所帯だ。遠足の如き大集団は、ひたすら東を目指した。僕の自転車には、道子とさちと雪枝の鞄を縛り付け、3人がフリーで動き回れる様にして体調が悪くなったり、足にマメが出来て歩けなくなった者が居ないかを見て回らせた。町境で一時休憩を取り自販機からお茶やポカリを手に入れた。「意外と近いな。もう直ぐ市の中心部に入るぜ!」竹ちゃんが驚いている。「いや、まだまだ長いよ!これから一旦登ってから下りに入るが、市内に向かう程、冠水している可能性が高くなる!ヤマ場はこれからさ!」と僕が言うと「俺達は更にその先まで行くんだぜ!まだ、4分の1を通過しただけじゃないか。それでも、確実に前進してはいるな!」伊東が言った事は間違ってはいない。茅野市まではまだ先があった。再び前進を始めて直ぐに「道子、雪枝、この街並みに見覚えは無いかい?」と言うと「なんか妙に懐かしい感じはあるけど」「さっき休んだ場所の風景に見覚えがあるのよ」と2人して小首を傾げる。「あの火の見櫓に見覚えは?」古びた銀色の火の見櫓を指すと「あー!“鉄の檻”じゃない!」「そうそう、いつもYに助けてもらったヤツじゃん!」と記憶の扉が開いた。「あたし達の“メインストリート”!」2人は合唱すると駆け出した。「ここが、Y達の原点なの?」さちが聞いて来る。「そう、僕等の幼い日々の根城だよ。もうじき下り坂になるが、その先のT字路に一番の思い出が詰まってる場所がある!」道子と雪枝は遠い昔を思い出しながら先を争って進んでいく。「Y-、この下の保育園は?」「今は統廃合されて閉園になってるよ!生まれてから保育園、小学校2年までをこの街で過ごした。少し変わっているところもあるけど、10数年前に僕達はここで遊んでいたんだよ。さちが一緒だったらもっと楽しかっただろうな!」「小さなYと遊びたかったな。でも、羨ましいよ。こんな近くに共通の思い出の場所があるなんて。意外に狭いけど風情はある街並みだね」さちが答えてくれた。「昔は広く感じたんだが、僕等が大きくなった分スケールも変わってしまったのは仕方ないよ。ほら、T字路だ。道子と雪枝に聞いて見なよ。悪ガキの頃の事を」僕はさちの背を押した。道子と雪枝は満面の笑みをこぼしながら語り合っていた。「さち、ここよ!この坂道が三輪車レースのメイン会場!」「考え出したのは、Y。靴を何足もダメにして怒られても誰も止めなかったの!」今はガードレールが張り巡らされているが、思い出の坂道は相変わらず存在していた。「Yはどこに住んでたの?道子と雪枝は?」さちが道子達に聞いていた。「あたし達は、あのマンションの辺りにあった市営住宅に。Yは体育館が立ってる辺りに」「今、思い出したけど保育園の頃、Yのおかあさんが“お迎え”をうっかり忘れた事があるの!その時、Yはどうしたと思う?」「さあ、どうしたの?」「大泣きしがら自力で帰ったのよ!そして、おかあさんに抗議したの!」「うわ、桁外れだね!」「でしょう?昔から地図を読み解くのは得意だったの。1度通った道は絶対に忘れなかったわ」女子トークが炸裂していた。「へー、割と近所に固まってるじゃねぇか。悪ガキ3人衆の思い出の場所か!」竹ちゃんも参戦した。「転校してから1度も戻ってなかったけど、あの頃とあまり変わって無いのがうれしいな。住んでた家はもう無いけど、思い出は消えてないわね」道子がしみじみと言う。「Y-、今度みんなでまたここに来ない?“思い出を語る会”でもやろうよ!」と雪枝が言い出した。「いいね。何もない休日に駅から歩いて来るか?ゆっくりと歩けば色々思い出す事もあるだろうし」僕は提案を受け入れた。「そうね、また来よう!今は通り過ぎるだけだけど、それでも思い出は溢れて来るもの」道子が半泣きになった。「また今度、道子の“おてんば振り”を聞きにくるぜ!参謀長、解説を宜しくな!」「ああ、また今度。きっと戻って来るとしよう!」僕等は溢れる思い出を振り切って前進した。市内の駅裏に差し掛かると、次第に水たまりが増えてしまいには車道に水が流れる状況になった。歩道はあるが、狭いので隊列を長くしての前進するしか無い。駅の真正面にある百貨店の裏口に辿り着くと5名が名乗り出た。「家の近所に来ましたので、自力で帰ります!」と言うので「帰り付くまで気を抜くな!」と言って送り出した。5人は手を振って僕等を見送ってから家路に着いた。そこから800m程進むと、竹ちゃんと雪枝、さちを中心に10名が別れる事になった。「ここまで来れば“救助要請”が通じるだろう。雪枝達は俺が責任を持って送り届ける。参謀長、ありがとよ!道子達を頼んだぜ!」さちは「Y、無事に戻ってね!帰ったら電話して!」と半泣きで言った。竹ちゃんとさち、雪枝達は国道を越えて南方向へ別れて行った。僕等も手を振って見送る。残ったのは、伊東、千秋、道子を中心に上田や池田らの3期生を含む10名になった。道のりはやっと半分を通過したに過ぎない。市街地から山沿いに抜けると小高い丘に公園が見えた。「伊東、昼にしよう。腹が減っては何とやら。場所がある内に食っとかないとダメだ!」僕が言うと「そうだな、この先に場所がある保証は無い。みんな昼にしよう!足を休めるぞ!」僕等は公園へ雪崩れ込むと弁当箱を広げた。「参謀長、この先はどうする?」伊東がメシを食べながら言う。「桑原地区を通過したら、線路を渡って国道に出る。上原地区に付いたら目印になりそうな施設と公衆電話を探して、各自自宅へ“救援要請”を出してもらう。恐らく桑原の南、赤沼地区が冠水して止まっている原因だろう。あそこは意外と周囲より低いんだ。当面は山沿いを東に進むが、どこかで南東方向へズレなきゃならない。だが、先は見えてるから、ここで踏ん張れば家に帰れるぜ!」「でも、Yはまた来た道を引き返すんでしょう?そして、鳥居から家までを進まなきゃならない。本当に大丈夫なの?」道子が聞き返して来る。「道を知らなければここまでは来ないさ。帰りは自転車で走り抜けるから、来た時の半分の時間で戻れるさ。後は駅の駐輪場へ自転車を置いて、タクシーを拾えば何とかなるさ!」「でも、保証は無いのよ!本当に大丈夫なの?」道子は心配ばかりだった。「ケースバイケースで考えればいい。天気が悪化する要素は無いし、溢れた水も排水が進んでいるだろう。帰り道の展望は悪くはならないよ。心配はいらない!」僕は道子を安心させる様に努めた。40分後には隊列を組んで再び東を目指して歩き出した。裏へ裏へと進路を取った結果、1時間後には無事に上原地区へ辿り着く事が出来た。山沿いを離れて国道へ出るとパチンコ店があり、公衆電話も見つかった。「よし、順番にSOSを発信してくれ!」みんな疲れてはいたが、家への連絡は無事に付いた。「Y!ママが来るまで待ってて!」道子が呼び止めに来た。「ああ、みんなが収容されるまでは残るつもりだけど」と言うと「それは俺が引き受ける。道子の迎えが来たらお前さんは引き返せ!暗くなっちまうぞ!」と伊東が言う。早い子はもう迎えが到着し始めていた。無事に引き渡していると、道子の母親がやって来た。「Y、これを持って帰りな!」道子はおにぎりを3つとボトルを2本手渡しに来た。「本来なら、引き止めるのが筋だろうけど、Yの事だから“帰る”って言うでしょう?途中で食べて行ってよ。それと水分摂らないと倒れるよ!」道子が懸命に考えての妥協案を出して来たのだ。「済まん。ありがたくもらって行くよ。伊東、後は任せていいか?」「もう、充分だ!無事に帰れ!必ずな!」「Y、ありがとう。また、助けられたね。檻から助けてくれた昔の様に。くれぐれも事故に遭わないで!帰ったら電話してよ!」道子が僕の肩を叩く。「じゃあ、引き返すよ!伊東、道子、千秋、またな!」「必ず無事に帰れー!」3人の大声が僕の背中を押した。僕は自転車を旋回させて手を振ると、来た道を引き返して行った。自転車は軽快に西へと戻る道を進んでいった。
翌月曜日、慌ただしく朝食を済ませると、僕は自転車を全速力で漕いで学校を目指した。“大根坂”をよじ登り、荒い息のまま掲示板に見入った。だが、菊地に関する掲示物は無かった。「公式発表はまだか!」取り敢えず水道で顔を洗って、汗を拭い階段をヨタヨタと昇る。教室の机に鞄を投げてから、生物準備室のドアの前に座り込んだ。合格か?否か?知る術は先生を捕まえるしか無かった。荒い息は徐々に治まり汗も引いた頃、階段を昇って来る足音が聞こえた。「Y!大丈夫か?顔色が悪いぞ!」中島先生が声をかけてくれる。「いえ、大丈夫です。大急ぎで登校したので、無理をやっただけでいすから」息を整えながら返すと「“合否”が気になったか?ともかく中へ入れ!今、水を出してやるから」先生からコップ1杯の水を受け取ると、ゆっくりと飲んで乾いた喉を潤す。「お前がこれ程焦るのは無理もない事だが、己の体力を過信するな。お前に倒れられると校長が煩くて敵わん!さて、昨日の結果だが、編入試験は途中で“打ち切り”になった。不正が発覚したので3教科の試験が終わった段階で差し止めたのだ。恐らく、現在通っている高校も追われる事になるやも知れん!」先生の口から出た言葉を僕は直ぐには理解できなかった。「不正行為とはもしかして“カンニング”とかですか?」「ああ、まさしく“カンニング行為”だ。後で調べた結果、筆記用具のありとあらゆる部分から“カンニングペーパー”が出て来た。腕時計の裏にも貼り付けてあったぐらいだ」先生は呆れ顔で僕の正面のソファーに座った。僕のコップに水を注ぐと「不正を見抜いた経緯だが、実は偶然でな。数学の問題に1期生の総合模試の問題が誤って入り込んでいたのだが、菊地は何故か正解を取ったのだ。履修範囲外にも関わらずな。初めは自主学習の成果かと思ったが、問題用紙を見て“これは妙だ?”と気付いたんだ。お前達も分かると思うが、普通問題用紙には線を引いたり、計算式を書いたりするはずだよな?だが、問題用紙は真っ新なままだったんだ。計算式すら立てていない!そこで“これは妙だ?”と改めて気付いて、英語と国語の問題用紙も洗い直した。結果は同じだった。それで、休憩中に筆記用具を改めたところ、続々と“カンニングペーパー”と出たのだ。その場で菊地本人を問い詰めると“カンニング行為”を認めたので、以後の日程を打ち切って追い返したのだ!校長は直ぐに県教委と推薦先の県と学校に電話を入れて抗議した。“カンニングペーパーを用いるとは何事か?!”とな。向こうも二の句が継げぬくらいの勢いで怒鳴り散らした。公式の発表はこれからになるが、不正を働いた以上、編入はあり得なくなったよ。“私の眼が黒い内は、何があろうとも菊地の高校受験・編入・卒業は阻止して見せる!”と校長も湯気を立てておったぐらいだ。推薦先の高校も“この様な不正行為を働いた以上、本校に留め置くつもりはありません!”と言い切った。“菊地美夏の高校生活”は終わった様なものだ!」「では、もう彼女はどこの学校からも追放されると言ってもいいですか?」「ああ、間違いなく“破門状”が出回るから、県内はおろか隣接県も含めて追放される。もう、ヤツを受け入れる学校は無い!安心しろ。脅威は過ぎ去ったのだ」「自滅するとは、何と愚かな・・・」「同情の余地は無い!これだけの“悪行”に手を染めたのは、菊地本人だ!自ら道を踏み外したヤツに更生が見込めるか?社会は甘くは無い。義務教育は済ませたのだから、働くなりして己の愚かさを悔いればいい。Y、クラスの上層部にはお前から伝えて置け!菊地の脅威は跳ねのけたとな!ともかく、水を飲んで体を落ち着かせろ。朝は食べて来たのか?お前の体調管理は、特に校長からも厳しく言われておる。確か、貰い物のクッキーがあったはず。腹を少しでも満たして行け。下手に保健室送りにでもなったら、校長が煩いからな」先生はアールグレーを淹れるとクッキーも並べて食べる様に促した。全力を使い切った体にはちょうどいい栄養補給になった。
「万歳―!」「ヒュー!ヒュー!」「遂にやったぞー!」早めに登校していた査問委員会のメンバー全員が踊り狂った。僕が告げた“結果報告”を受けて各自に明るさが戻った。一通りのハイタッチを終えると「諸君、長かった戦いは終わった。我々はクラスを仲間を守り抜いた!ここに“対菊地戦争”の勝利と終結を宣言する!」と長官が高らかに言った。「万歳―!」「ヒュー!ヒュー!」長官を中心にみんなが踊り叫ぶ。「参謀長、長かったが我々が押し切ったな!ご苦労だった!」長官が握手を求めて来た。「ええ、苦しい中、みんな良く頑張ってくれました。全員で掴んだ勝利ですよ!」僕等はしっかりと手を握り合った。「俺は原田に一報を入れて来る。ヤツも安堵するだろうよ!」伊東が走り出す。「勝利を記念して、毎月の今日を“戦勝記念日”にしねぇか?」竹ちゃんが浮かれて言い出す。「いいわね!忘れないためにもそうしましょう!長官、今日から毎月“戦勝記念日”にするわよ!」千里が長官を捕まえて言っていた。道子と千秋が黒板に“戦勝記念日”とカラフルに書き上げた。登校して来たクラスメイト達も笑顔になった。あちこちでハイタッチが繰り返されている。「どうした?勝ったのにそんなシケたツラして?“破門状”が出回ればヤツは終わりだよ。今度こそ年貢の納め時さ!」滝も笑顔で行って来る。「苦いな。こんな形で終わるなんて。せめてもう1度相対してから終わりにしたかったよ」僕がそう言うと「なじり合いになってもか?どうやってもヤツの腐り切った性根は変わらん。非難の応酬になるだけさ。俺はこれでいいと思うがね」滝はサバサバと言う。僕の心には穴が開いた感じが残った。相容れない間柄ではあったが、歳も同じ同級生だったのだ。彼女が何処ともなく消えたのは間もなくだった。家族共々“夜逃げ”同然に消えたと言う。こうして“菊地美夏”と言う女の子は書き消された。今は生死すら不明のままだ。
2時間目の授業が終わった時、僕は堀ちゃんに呼び止められた。教室前の廊下に出ると上目遣いで僕を見ながら「Y、修学旅行が終わったら“誰にも邪魔されないとこへ行こう”って言ったけど、あの話、延期にしてくれないかな?」「どうして?」「これを見て!」堀ちゃんがミニアルバムを差し出した。そこには“別人の堀ちゃん”が写っていた。「うーん、さすがは松田の作品だ!文句の付けようが無い。それにしても、こんな表情の堀ちゃんは初めて見るよ。この表情を切り取れるのは“常に背を追っていた”からだろうな。1枚1枚から思いが溢れてる。あっ、この2枚は僕の撮影したヤツだ」「松田君が“Yに渡してくれ”って言ってた。それでね、あたし松田君と話して見て自分の事に自信が持てる様に思えて来たの。これ見て!」堀ちゃんが指さしたのは、浴衣姿に薄化粧をしたカットだった。「綺麗だな。それ以上の言葉が出ない」僕は唸るしかなかった。「これを撮るために色々と試したんだけど、作品を作るって楽しいなって思えて、松田君のレンズの前に立つのがとても楽しいし“次はどんな表情をしようか?”なんて考えるとウキウキするの。だから・・・」「しばらく松田と行動を共にしたい?」と僕がセリフを引き取ると、堀ちゃんは頷いた。「でも、お茶会や任務は続けたいの。あたしワガママかな?」「そんな事無いよ。僕等は唯一無二の間柄だろう?離れていても心は常に共にある。ちょっと出張して来ればいいんだ。疲れたら、困ったら、迷ったら戻ってくればいい」「Y、いいの?長い出張になるかも知れないよ!」「僕等の家は、いつでも開いてる。自分を松田を信じて行ってくればいい。僕も困ったら聞きに行くけど、それは承知してくれよ!」「うん、他ならぬYの頼みは断らない。いつでも聞きに来て。ノートも貸し出すし、あたしの苦手分野は教えてもらいに行くから。じゃあ、あたし行って来る!Y、家を守ってて。必ず戻るから!」「よし、行って来い!松田に“大切にしなきゃ後で倍返しに行く”って言っといてくれ!」「分かった。Y、ありがとう!」堀ちゃんは頬に軽くキスをすると教室へ戻った。「卒園か。これでやっと“保育園”を閉園に出来るな」僕はポツリと言うとロッカーから参考書を引っ張り出した。
“対菊地戦争”の終結は、2期生全体に良い影響をもたらした。原田政権が安定し順調に各施策が随時軌道に乗った事で、校内に新しい風が吹き新時代の到来を2期生・3期生共に実感する事になり、各施策の効果も眼に見えて現れ始めた。最も恩恵を受けたのは前生徒会長から“追放”された3期生の男子達だろう。余裕が生じた事で、原田は彼らの“復権”を更に前倒しにして実施したのだ。これにより“異常事態”は解消され、全生徒が生徒会に復帰する事となり、本来有るべき姿を取り戻すに至った。また、上田、遠藤を中心とした新3期生クラス委員達は、着実に改革の歩を進めており、全クラスで過半数を上回る勢力を獲得して地盤強化を推進していた。僕と西岡達の“特命任務”も終盤を迎え、最後の“見えない障壁”の突き崩しを残すのみとなった。すっかり秋風が吹き抜ける季節を迎えたある日、「いよいよ最後の策を実行する段階に来ました。些か不純な手口ではありますが、バレンタインを餌に“日和見”を決め込んでいる者達を吊り上げにかかります!これで、各クラスの8割を確保し揺ぎ無い体制は完成となります!」と西岡が言って来た。「そうか、やっと基礎工事が終わるな。次は建屋の建設だが、それは上田や遠藤達に任せよう。既に長期政権への道筋も付けてある。そろそろ、我々の手を離れる時が来たらしいな。彼女達も自立への道を歩んでいる。もう、ここまで来れば後戻りはあるまい。西岡、随分と苦労をかけたが、任務はほぼ完了した。ありがとう。策を授けたら、見守りに徹して表立った行動は控えよう。彼女達なら大丈夫だ!」僕は握手を求めた。西岡は一瞬躊躇したが、僕の手を握りしめた。そして「参謀長、あたしはこれからも彼女達を見守って行きます。異変があればご相談に乗っていただきますが、完全に手を引かれますか?」と聞いて来た。「“完全に”はまだ無理だろう?表立っての行動を控えるだけだ。本来の陰に戻るだけ。僕は指揮を執るより、作戦を練る方が得意だ。言わば縁の下の存在。陰から彼女達を支援するのは当然だし、必要なら策も授けよう。だが、彼女達との接触は差し控えるよ。今は我々も落ち着いて居られるが、この平和が長く続くとは限らないし保証もない。少し体を休めて置くのも悪くは無いだろう?中島先生からも“お前の体調管理には誰よりも手がかかるし、校長も注視している。いい加減策謀に関わるのを止めて手を抜け!”と釘を刺されたばかりだ」と返すと「確かに、参謀長は働き過ぎです!少しは休息して下さい。あたし達クラスの女子の宝を疲弊させたと言われるのは心外ですし、上田や遠藤達の餌食になどさせられません!雛鳥に横取りされるのは論外です!」と彼女はムキになって言う。「分かった。そう怖い顔をするな。いずれにしても、来月初には“任務完了報告”を出さねばならない。今回を持って1つの区切りとする。それは承知してくれ」「はい、上田や遠藤にもそう伝えて置きます。では、またご報告に上がります」と言うと西岡は身を翻して東校舎へ向かった。髪が長くなり、スラリとした容姿に似合っている。彼女なら将来は部課長クラスまで出世するかも知れないとふと思った。「西岡が居てくれたから“3期生再生計画”は成功した様なものだ。彼女の功績は称えられるべき。報告書には細大漏らさずに載せてやらねばなるまい」僕はそう呟いて彼女の後姿に見入っていた。
“災害は忘れた頃にやって来る”と言うが、その年の10月は“遅れて来た台風”によって大雨の見舞われる事になった。ちょうど週末にかけて台風は通過していったが、翌月曜日に僕達は大変な目に遭ってしまった。“ホテル向陽”に通じる唯一の道が朝方に法面崩落を起こして車両の通行が不可能になったのだ。僕達が登校した時刻には路面に亀裂が入っている程度であったが、その15分後に路肩は崩落し学校は事実上“孤立”する事態になった。査問委員会のメンバーと僕等は、割と朝早くに“大根坂”を登って来るが、後続の生徒達は足止めを喰らう事になった。学校側も事実確認に手間取り、生徒の登校を止めるまでにかなりの時間を要したため、危険地帯を潜り抜けて教室へ辿り着いた生徒は多数いた。“臨時休校”が発表されたのは、午前8時を過ぎてからになってしまい、止む無く僕等は家へ引き返す事になったのだが、崩落現場を潜り抜ける必要に迫られた。う回路はあったが、川が増水しており途中の橋は渡れなかった。僕等は集団になり、住宅地を跨いで街中を目指した。「どうなってるんだよ!来たはいいが“帰れ”はねぇだろう!」竹ちゃんの怒りは収まらない。「食料や水、毛布がなけりゃ下るしか無いよ。学校に留まっても、夕食や明日の朝メシが無いんだから。こう言う場合の備えが無いのが致命的だな!」僕が自虐的に言うと「電車もバスも当てにならないとしたら、駅でまた立ち往生だぜ!今日中に帰れればいいが?」と伊東も言う。「松本方面は大丈夫だろうけど、新宿方面が心配!道も寸断されてるとしたら、帰るに帰れなくない?」道子も言う。2期生・3期生合同のグループを急遽組んでいるから、集団してはかなりの人数になっている。西へ向かう方法はあるが、問題は東へのルートが閉ざされていないか?だった。深夜に降った大雨の影響は今になって現れているのだ。朝、学校へ来るときは良くても、今現在がどうなっているのか?を知る術が無かったのだ。実際、駅付近のバス停で聞いて見ると「2時間以上は待っているが来る気配が無い」との答えが帰って来た。不安を覚えつつも駅へ行って見ると、上下線共に“運転を見合わせ中。再開は未定”の看板が出ていた。「クソ!これじゃあ帰れねぇ!どうしろってんだ?」と竹ちゃんが毒づいた。駅員に聞き込みをして見ると、鉄橋が水に浸かり、その先も冠水している区間があると言う。排水が出来ても線路の点検が済まなくては電車は運行を再開しない。特に新宿方面は絶望的だった。「道路が渋滞してて、ここに辿り着く時間が読めないみたい!最悪だわ!」道子も、さちも、雪枝も答えは同じだった。自宅からの応援も期待できそうに無い。「こっちもダメ!寸断されてるみたい!」中島ちゃんも堀ちゃんも答えは同じだった。「さて、どうする?」伊東が思案に沈む。問題は川の増水だった。後、数時間は水位が下がる見込みはない。「参謀長、策は無いか?」竹ちゃんが尋ねて来る。“東西へ進む道は何処にある?”地図を思い出しルートを探す。だが、どうしてもクリア出来ない問題があった。僕は2人になれない事だ。しかし、可能性は無くは無い。「山本、脇坂、お前達は小佐野の家を知ってるよな?それと、小佐野のお気に入りの温泉も!」「ええ、あっ!そうか!」「あそこまで遡れば川底は遥か下、渡れますね!」「そうだ、遠回りにはなるが確実に川を渡って西へ向かうなら、大迂回もありだろう?後は、山腹に沿って町境を越えれば、各家から応援も呼べるはず。直ぐに人数把握にかかれ!地図は後で書いてやる。伊東、竹ちゃん、ハイキングに付き合ってくれ!旧道を歩いて東を目指す。長旅になるけど、道案内はやらせてもらうよ!」「けれど、Yの家とは完全に逆方向じゃない!帰りはどうするのよ?」道子が心配して聞いて来る。「なーに、自転車があれば帰りはずっと早く帰れるよ。実は、先週からここの駐輪場に自転車を置いたままなんだ。心配はいらないよ!」「じゃあ、歩いて突破するの?東西両方向共に!」中島ちゃんが驚いて口元を覆う。「そうさ、交通機関は麻痺しているけど、歩いて帰る事は出来る。座して待つよりは早く帰れるはずさ!」「いいわ、やろう!ただ待ってても助けは来ない。助けを呼べる場所まで歩いていけばいいじゃない!」道子が声を挙げると、みんなが頷いた。「じゃあ、神社の鳥居まで戻る!そこで別れよう。脇坂、自転車を出して来てくれ。山本はノートを貸せ。地図を書くから」慌ただしく準備が進められ、僕達の大キャラバンは神社の鳥居の前へ戻った。大鳥居の下へ再集結した者は、40名近くになった。これは、駅で右往左往していた10名も加わったからだった。「山本、脇坂、西部方面部隊の指揮を執れ!おおざっぱな地図はこれだ」僕は山本のノートを差し出した。「ここから真っ直ぐ西を目指せ。前ノ宮の前を通り抜けると橋に突き当たる。車道は無理かも知れないが、歩道橋は数10cm高い位置にある。ここを突破出来そうなら、強行突破しろ!そうすれば、体力を温存出来るし後が楽になる。もし、封鎖されていたら山へ向かって迂回するしか無いから、国道へ出てからバス停を頼りに北へ向かえ!ポイントはここだ。川さえ渡れば、向こうは緩やかな傾斜地だから長地小を目指して行けば、ルートは開ける。最悪の場合は、小佐野を頼れ!どうせブツブツと文句は垂れるだろうが、手は貸してくれるはずだ。長地へ出たら¨救助要請¨の電話をかけて、帰宅させればいいが、最後の1人に向かえに来るまで責任は果たせ!」「はい!」2人の表情が引き締まった。「中島ちゃん、堀ちゃん、松田、2人の補佐を頼む。無事を祈ってるよ!」「Yも無理しないでちゃんと帰ってよ!」中島ちゃんが叫ぶ。「よし、出発!」山本と脇坂に率いられた西部隊は西に向かって歩き出した。何度も振り返っては手を振る。「さて、東部部隊も出るか。長い道程だが、休みながら行こうか!」「参謀長、道順は?」竹ちゃんが聞いて来る。「旧道を辿って行けば、障害に当たる確率は下がるから、裏へ裏へと迂回しよう。4年前に探査した事があるから道順は分かってる。伊東と竹ちゃんを先頭に2列隊形を組もう。最後尾は、道子とさちと雪枝。僕は自転車で前後を見ながら移動するよ」「よし、我々も出発だ!」伊東の掛け声と共に東部隊も東に向かって歩き出した。西部隊が15名前後なのに対して、こちらは約25名の大所帯だ。遠足の如き大集団は、ひたすら東を目指した。僕の自転車には、道子とさちと雪枝の鞄を縛り付け、3人がフリーで動き回れる様にして体調が悪くなったり、足にマメが出来て歩けなくなった者が居ないかを見て回らせた。町境で一時休憩を取り自販機からお茶やポカリを手に入れた。「意外と近いな。もう直ぐ市の中心部に入るぜ!」竹ちゃんが驚いている。「いや、まだまだ長いよ!これから一旦登ってから下りに入るが、市内に向かう程、冠水している可能性が高くなる!ヤマ場はこれからさ!」と僕が言うと「俺達は更にその先まで行くんだぜ!まだ、4分の1を通過しただけじゃないか。それでも、確実に前進してはいるな!」伊東が言った事は間違ってはいない。茅野市まではまだ先があった。再び前進を始めて直ぐに「道子、雪枝、この街並みに見覚えは無いかい?」と言うと「なんか妙に懐かしい感じはあるけど」「さっき休んだ場所の風景に見覚えがあるのよ」と2人して小首を傾げる。「あの火の見櫓に見覚えは?」古びた銀色の火の見櫓を指すと「あー!“鉄の檻”じゃない!」「そうそう、いつもYに助けてもらったヤツじゃん!」と記憶の扉が開いた。「あたし達の“メインストリート”!」2人は合唱すると駆け出した。「ここが、Y達の原点なの?」さちが聞いて来る。「そう、僕等の幼い日々の根城だよ。もうじき下り坂になるが、その先のT字路に一番の思い出が詰まってる場所がある!」道子と雪枝は遠い昔を思い出しながら先を争って進んでいく。「Y-、この下の保育園は?」「今は統廃合されて閉園になってるよ!生まれてから保育園、小学校2年までをこの街で過ごした。少し変わっているところもあるけど、10数年前に僕達はここで遊んでいたんだよ。さちが一緒だったらもっと楽しかっただろうな!」「小さなYと遊びたかったな。でも、羨ましいよ。こんな近くに共通の思い出の場所があるなんて。意外に狭いけど風情はある街並みだね」さちが答えてくれた。「昔は広く感じたんだが、僕等が大きくなった分スケールも変わってしまったのは仕方ないよ。ほら、T字路だ。道子と雪枝に聞いて見なよ。悪ガキの頃の事を」僕はさちの背を押した。道子と雪枝は満面の笑みをこぼしながら語り合っていた。「さち、ここよ!この坂道が三輪車レースのメイン会場!」「考え出したのは、Y。靴を何足もダメにして怒られても誰も止めなかったの!」今はガードレールが張り巡らされているが、思い出の坂道は相変わらず存在していた。「Yはどこに住んでたの?道子と雪枝は?」さちが道子達に聞いていた。「あたし達は、あのマンションの辺りにあった市営住宅に。Yは体育館が立ってる辺りに」「今、思い出したけど保育園の頃、Yのおかあさんが“お迎え”をうっかり忘れた事があるの!その時、Yはどうしたと思う?」「さあ、どうしたの?」「大泣きしがら自力で帰ったのよ!そして、おかあさんに抗議したの!」「うわ、桁外れだね!」「でしょう?昔から地図を読み解くのは得意だったの。1度通った道は絶対に忘れなかったわ」女子トークが炸裂していた。「へー、割と近所に固まってるじゃねぇか。悪ガキ3人衆の思い出の場所か!」竹ちゃんも参戦した。「転校してから1度も戻ってなかったけど、あの頃とあまり変わって無いのがうれしいな。住んでた家はもう無いけど、思い出は消えてないわね」道子がしみじみと言う。「Y-、今度みんなでまたここに来ない?“思い出を語る会”でもやろうよ!」と雪枝が言い出した。「いいね。何もない休日に駅から歩いて来るか?ゆっくりと歩けば色々思い出す事もあるだろうし」僕は提案を受け入れた。「そうね、また来よう!今は通り過ぎるだけだけど、それでも思い出は溢れて来るもの」道子が半泣きになった。「また今度、道子の“おてんば振り”を聞きにくるぜ!参謀長、解説を宜しくな!」「ああ、また今度。きっと戻って来るとしよう!」僕等は溢れる思い出を振り切って前進した。市内の駅裏に差し掛かると、次第に水たまりが増えてしまいには車道に水が流れる状況になった。歩道はあるが、狭いので隊列を長くしての前進するしか無い。駅の真正面にある百貨店の裏口に辿り着くと5名が名乗り出た。「家の近所に来ましたので、自力で帰ります!」と言うので「帰り付くまで気を抜くな!」と言って送り出した。5人は手を振って僕等を見送ってから家路に着いた。そこから800m程進むと、竹ちゃんと雪枝、さちを中心に10名が別れる事になった。「ここまで来れば“救助要請”が通じるだろう。雪枝達は俺が責任を持って送り届ける。参謀長、ありがとよ!道子達を頼んだぜ!」さちは「Y、無事に戻ってね!帰ったら電話して!」と半泣きで言った。竹ちゃんとさち、雪枝達は国道を越えて南方向へ別れて行った。僕等も手を振って見送る。残ったのは、伊東、千秋、道子を中心に上田や池田らの3期生を含む10名になった。道のりはやっと半分を通過したに過ぎない。市街地から山沿いに抜けると小高い丘に公園が見えた。「伊東、昼にしよう。腹が減っては何とやら。場所がある内に食っとかないとダメだ!」僕が言うと「そうだな、この先に場所がある保証は無い。みんな昼にしよう!足を休めるぞ!」僕等は公園へ雪崩れ込むと弁当箱を広げた。「参謀長、この先はどうする?」伊東がメシを食べながら言う。「桑原地区を通過したら、線路を渡って国道に出る。上原地区に付いたら目印になりそうな施設と公衆電話を探して、各自自宅へ“救援要請”を出してもらう。恐らく桑原の南、赤沼地区が冠水して止まっている原因だろう。あそこは意外と周囲より低いんだ。当面は山沿いを東に進むが、どこかで南東方向へズレなきゃならない。だが、先は見えてるから、ここで踏ん張れば家に帰れるぜ!」「でも、Yはまた来た道を引き返すんでしょう?そして、鳥居から家までを進まなきゃならない。本当に大丈夫なの?」道子が聞き返して来る。「道を知らなければここまでは来ないさ。帰りは自転車で走り抜けるから、来た時の半分の時間で戻れるさ。後は駅の駐輪場へ自転車を置いて、タクシーを拾えば何とかなるさ!」「でも、保証は無いのよ!本当に大丈夫なの?」道子は心配ばかりだった。「ケースバイケースで考えればいい。天気が悪化する要素は無いし、溢れた水も排水が進んでいるだろう。帰り道の展望は悪くはならないよ。心配はいらない!」僕は道子を安心させる様に努めた。40分後には隊列を組んで再び東を目指して歩き出した。裏へ裏へと進路を取った結果、1時間後には無事に上原地区へ辿り着く事が出来た。山沿いを離れて国道へ出るとパチンコ店があり、公衆電話も見つかった。「よし、順番にSOSを発信してくれ!」みんな疲れてはいたが、家への連絡は無事に付いた。「Y!ママが来るまで待ってて!」道子が呼び止めに来た。「ああ、みんなが収容されるまでは残るつもりだけど」と言うと「それは俺が引き受ける。道子の迎えが来たらお前さんは引き返せ!暗くなっちまうぞ!」と伊東が言う。早い子はもう迎えが到着し始めていた。無事に引き渡していると、道子の母親がやって来た。「Y、これを持って帰りな!」道子はおにぎりを3つとボトルを2本手渡しに来た。「本来なら、引き止めるのが筋だろうけど、Yの事だから“帰る”って言うでしょう?途中で食べて行ってよ。それと水分摂らないと倒れるよ!」道子が懸命に考えての妥協案を出して来たのだ。「済まん。ありがたくもらって行くよ。伊東、後は任せていいか?」「もう、充分だ!無事に帰れ!必ずな!」「Y、ありがとう。また、助けられたね。檻から助けてくれた昔の様に。くれぐれも事故に遭わないで!帰ったら電話してよ!」道子が僕の肩を叩く。「じゃあ、引き返すよ!伊東、道子、千秋、またな!」「必ず無事に帰れー!」3人の大声が僕の背中を押した。僕は自転車を旋回させて手を振ると、来た道を引き返して行った。自転車は軽快に西へと戻る道を進んでいった。