先日また自宅のピアノの弦を切ってしまった。あーあ。切りそうな時は予感がある、あまり良くない...って縁起の話ではなくて、自分の状態があまりよくない時。大体はちょっと一生懸命やろうと思って音が硬くなっている時に...嫌だな...と思いながら弾いているとブチッと逝く。ああ、ガッカリ。
でも初めて弦を切った時はガッツポーズだった。藝高時代に友達が切ってる話をしていて内心憧れがあり、初めて切った時はちょっとレベルが上がった気持ちになった。そうしたらその後からは切りまくるようになってしまっていいような悪いような...
こうなったら我々(自分で張れるピアニストもいると思うけど)は調律師さんに電話するしかない。つまりこれが、ピアノと私だけだとできないこと。
大学時代に実家でやっと自分のグランドピアノを手にした私は(やっと?ええ、そうです。このエピソードはまた後日)そのピアノもやっぱりブチブチ切っていたので、その度に「ハイいいですよー、仕事の合間に寄りますねー」と明るく答えてすぐきてくれた。そして宇都宮で演奏する時はステージのピアノも出来る限りお願いし、いつも演奏も聞いてもらった。「よく鳴ってますね、よく練習するから」と嘘か誠か、いつも励ましてくれた方だった。
いつでも誰にでも平等に接し、丁寧で笑顔で明るく、ピアノをキレイな音にしてくれた。栃木県内で行われた主要な演奏会のほとんどをその方が担当していたのではないかと思っている。
誰にでも出来る仕事ではなかっただろう、体力的にも大変なお仕事だろうが、たくさんのピアニストとピアノをいつも助けてくれた。
ピアノってつくづく、いつでも、大変大掛かりな事になる。持ち歩かない(できない)という点だけで言えば自分は楽だが、その分現場で調達、そして調律師さんが必要。調律は昨日したから大丈夫...っていうんじゃない、今整備してもらいたいのです...というのがピアニストの本音だ。名器だってピアノ庫から出せばいいわけではない、そこから開演時間までにどう覚醒させるかがピアニストの腕、だけじゃなくて、調律師さんの腕との共同作業だ。限られた時間で行うことなのでそこが勝負の時間なのだ。
分かっているんです、本当にこれがどんな贅沢な話か。調律しなくても音は出るから。でもね...、ピアノってすみません、でも1人でどうしようもできないんです...と大掛かりな準備に恐縮しつつも、心の奥底では「待ってましたこの時を!」という「やっと本物のピアノを弾ける」時間がやってきたことに興奮してしまうのも事実。
分かりやすく言ってみればシンデレラと一緒。魔法の杖を一振りされて、輝くドレスで舞踏会(タイムリミットあり)って感じ。
たとえ舞踏会に行けたとしても、ボロボロの普段着じゃ自信持てないじゃないですか、それをキラキラにしてくれるのが調律師さんだと言ってもいいかも。だから、その魔法使いとの趣味と合っていないとまたそれも問題発生、となるので...とシンデレラも1回だったらあの有名な水色のドレスでよかったけど2回、3回となれば「えーと、前回のもいいけど...髪型変えてくださる?」とか「実は馬車よりロールスロイスが...」とか言うに決まっている。より良い状態を求めてしまうのが経験の副産物(?)だが、それをこちらが言わずとも、いや、期待以上のキラキラに仕上げてくれるのが魔法使い(つまり調律師)の腕だろう。
シンデレラの話はともかく、調律師さんの魔法にかかったピアノに出会えば、私はもはや言い訳や言い逃れはできない。ここからは本当に自分の腕1本だな...という覚悟が生まれる。だが魔法のピアノは驚くほど私を後押ししてくれるのだ。その調律師さんはそんな経験を何度もさせてくれて、私はずっと育ててもらっていたのだ。駆け出しの未熟な私にでさえ偉そうにしなかったし、無駄なお喋りをして私を迷わせたりする人ではなかったから、あくまでピアノを通して。そんな舞台裏での気遣いや落ち着いた存在も多くの方に信頼された1つだろう。
音楽のいいところは、必ず「誰か人間の仕事」と思えるからだ。ピアノの奥の「人間の仕事」を信じて私は音を出す。
ピアニストは孤独なものだが、ステージで弾いているときはピアノが頼り、でもそれを直前に万全に整えてくださるのは調律師さん。
ピアニストにとっていつしか同士のように思える人が現れたら最高だ。そんなエピソードをお聞きになった方もたくさんいるだろう。
だけど、お別れの時が来てしまった。
とても、寂しい。お別れは言えなかった。
仕事に誠実で、ピアノと向き合っていい音を、いい音楽を、愛した人だった。
ああ、私は若い時にいい人に出会えてたんだなあ。
私の感謝も弾く前の弱音もきっと分かってくれているだろうから、心の中でまた言えばいい。
そして、私はまた弾けばいい。
どのピアノたちも喜んでいたでしょう、いつもキレイにしてくれるから。ピアノだってキレイなのが好きだもの。
私とピアノをいつも助けてくださった事に心からの感謝と、ご冥福をお祈りいたします。
信頼のピアノ調律師・岡田 孝 さんへ。