強行しようとする、政府の方針、ここは沖縄か? いや違う、長崎県のとある村のこと。 1962年の計画がこの地域のダム建設計画! で、今も、建設反対の人たちが、普通に暮らしているのだが・・・ 映画の中でも、女の子がこう言っている。「私たちが、何か怖~い過激派の、住民のように、マスコミなどで、報道されているが、え~っ? なんで~? そんなことなどいっこもないのに、ねえ。 それが気にくわないのよ。 だって、普通に田んぼでお米を作って、川で遊んで、学校に行って、暮らしているだけなのに、反対しただけで、変な人になるみたい・・・」
裏面の解説にもあるが、治水や利水のため、といって無理やり推し進める行政に対し、この場所で(ホタルがいて、川魚もいて、田んぼや畑もあって、自然と一緒に暮らしている)住んでいるのが、なぜダメ? なのか。
事業の主体は、長崎県と佐世保市だが、一体全体、だれのための事業かと疑いたくなる。 しかも、もはや、今ではダムは作っても何の役にも立たず、無駄である、という学説が当たり前になってきている、というのに、である。
最近、図書館で借りた本だが、藤井 聡さんいわく。短期的な視野によって、人間がどんどん、飢餓的な状態に落とし込められる、と、警告している。
いわく、>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
ハリボテの国家を造る、その中に存在する、「貧欲」、「虚栄」、「恐怖」、「存在論的不安」に加え、「ルサンチマン」という俗情もあります。これは、自分が劣等ではないかという不安を常に抱えつつ、たとえば金銭上、圧倒的に優位な立場にいるユダヤ人にたいして抱く怨磋のような感情です。いずれにしても、こうした、精神の奥底からウジ虫が湧くような、ドロドロした腐りきった欲望。それらがすべて結託したものが、「全体主義をつくった社会的な俗情」です。
・・・1パーセントの勝者たちによる全体主義の存在をしっかりと知るべし、これが第一です。 第二は、かなり絶望的な話でもあるのですが、その崩壊には外部からの力が不可欠です。これがアレントの結論なのです。ナチズムが崩壊したのは戦争に負けたからです。内部での自浄運動も必要ですが、なかなか難しい。なぜなら、全体主義は強烈な自律性を伴う社会学的現象だからです。「外部から崩壊させるしかない」というアレントの結論を、われわれは虚心坦懐に受け止める必要があります。
では、1パーセントの外部はどこかというと、99パーセントです。99パーセントの弱者たち、ならびにエリートの中でも「体制外」にいる心ある人たちです。・・・・
ここでは結論だけ述べますが、99パーセントの人々の足元にある地域の文化、あるいは家族の構造、こういうものをしっかり見据えた上でコミュニティを大事にしていかねばならない。
そして、コミュニティの一番おおきなサイズはネーション(国家)ですから、ナショナリズムを重視する必要があります。・・・・
そのようなことを思い起こしつつ、99パーセントの人々が互いに協力してグローバル化全体主義に対抗していくことが必要とされているのではないか。 これが私が考える、グローバル資本主義を超えていくための基本的な方向です。
<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<少々長い、引用でしたが。
ここで、出てくるハンナ・アレントという人を扱った映画があって、ずいぶん前に見たのだが、アイヒマンという人物(この人は、真面目に職務をすすめて、ユダヤ人をいかに有効に殺戮~毒殺など含めて~をしていくかの責任者~ハンコを押す仕事)が、ナチス崩壊後につかまって、裁判にかけられた時の映像が出てくるが、彼は、上の命令に忠実に従っただけだ、という主張を翻さなかったエリートだった。 結果的に彼は、戦犯として、死刑になってしまうが・・・
が、普通の真面目なエリートが、普通にまじめに職務をするということは、中身が何であれ? その体制の中では重要なことだ。
・・・「ああ、疲れた」 ちょっと休憩!
とはいえ、この映画では、最後のところで、工事に入ろうとする請負いの人たちに、立ち向かう人々が、大きなブルドーザーの下に潜り込んで、工事を阻止しようと・・・ ところが、真面目な現場の工事責任者が、「危険ですので、どいてください!」と叫んでいる場面がでてくる。