「くじ引き」で土佐藩士20人の処刑決めた新政府 フランス兵殺傷の大きな代償
慶応4(1868)年2月15日、泉州・堺港に上陸したフランス軍の水兵22人を警備中の土佐藩士が殺傷した事件は重大な外交問題に発展する。フランス側が巨額な賠償金と発砲にかかわった藩士の処刑を要求してきたのだ。国力の差から要求をしぶしぶ受け入れるしかない新政府と土佐藩は被疑者の中から20人の処刑を決める。その選び方というのが過去の歴史的な重要案件でもたびたび登場したくじ引きだった。
●被疑者は29人
事件の翌日、任務を解かれた土佐藩の6番、8番両隊の73人は、18日に長堀の藩邸(大阪市西区)で藩の警察機関「下横目(したよこめ)」による聴取を受けた。
ちなみに当時の堺は外国人遊歩地域として認められていたため無断上陸ということはあり得ず、フランス側の記録には、事件での水兵による土佐藩士への発砲の記録もないという。
このため、在日フランス公使のレオン・ロッシュが今回の事件で、土佐藩に遺族への賠償金として15万ドル(7、8億円相当)の支払いや、発砲にかかわった全員の処刑などを求めてきたのだ。
家老の深尾鼎(かなえ)が見守る中で別室に1人ずつ呼び出しては事件のときの射撃の有無を確認したところ、「発砲した」と供述したのが29人にのぼった。
関係者以外は席を立って随時、土佐に帰国していったのに対して大坂にとどまった29人は22日、藩主らの申しつけとして次のことを言い渡された。
朝廷から20人の下手人を差し出すように申しつけられたが、誰を下手人にしてよいものかわからず、皆で藩邸の稲荷神社に参り、くじで決めるほかない-と。
●生死はくじ次第
29人全員が死罪になるはずだったが、そうなると世論が攘夷(じょうい)に傾き、騒動が起こることを懸念した新政府がフランス側と交渉し、隊長以下20人ということになったのだという。
それで、すでに死罪が決まっている6番隊・箕浦猪之吉、8番隊・西村左平次の隊長2人と小頭2人の計4人以外の16人の生死を稲荷神社でのくじ引きで決めることになった。
現在の大阪市立中央図書館の北西隣に建つ土佐稲荷神社は18世紀初頭、伏見稲荷から神を勧請して藩の蔵屋敷に祭ったのを始まりとする、まさに藩の守護神といえる存在だった。
そんな社殿前に集まった25人は、下横目の呼び出しに1人ずつ出て行き、大目付の小南五郎右衛門が持つくじを開いては、下横目に渡すといった行為を繰り返していった。
くじを見た24人は一様に平然としていたのか、あるいは死罪と決まり涙を流したり、助かって安心とも残念とも受け取れる複雑な表情をみせたりしていたのだろうか。
神社は一般にも開放していたため、参道を藩士らが取り囲む中で進んだ、この厳かでピーンと張り詰めたやりとりに出くわした参拝者の中には奇異に映った人もいたことだろう。
そして箕浦ら20人は翌23日、事件現場近くの日蓮宗寺院、妙國寺で切腹することに決まった。
●畳、木綿、そして毛氈(もうせん)
23日は晴天だった。20人は藩から出された酒をいただいた後、用意された駕籠(かご)に乗り込む。周囲は熊本、広島両藩の兵に護衛されながら堺へ向かった。
沿道には、話を聞いて駆けつけた関係者や市民らがいた。大和川を越えて堺に入ると、これまでとは比べようもないほどに多くの人が集まり、手を合わせてすすり泣く人もいた。
長堀の土佐藩邸から約8キロの道のりを経て駕籠は妙國寺の山門前に着く。現在の山門は寺の北側に建っているが、当時は寺の南側にあり、門の脇、土塀に沿って20人分の白木の棺おけが一列に並んでいた。
駕籠はそのまま境内へ入り本堂まで行くとようやくとまり、20人は降りた。本堂前の広場が切腹の場所らしい。
しばし時間があるということで20人は境内を散策することになり、「死に場所も見ておこう」と中に入ると、山内家の家紋が入った幕に囲まれた空間の中、四隅に立てた竹ざおと茅葺(かやぶ)きの屋根でできた簡素な建造物が目にとまった。
地面には粗いムシロが敷かれ、上質の白木綿で覆った2枚の畳、さらにその上に毛氈が重ねられ、傍らには人数分の毛氈が積んであった。
微妙な心境に誘われた20人だったが、そうしているうちに処刑は午(うま)の刻、つまり正午からと告げられる。最期の時がいよいよ迫った。(園田和洋)
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堺事件
死刑執行[編集]
2月23日(3月16日)、大阪裁判所の宣告により堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵を大喝した[6]。その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアール(Abel Bergasse Dupetit-Thouars)は、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請し、結果として9人が助命された。一説に、暮色四辺にたちこめ、ついに日暮れるに至り、軍艦長は帰途における襲撃を恐れたからであるという。本人の日誌によれば、侍への同情も感じながら、この形での処刑はフランス側が望むように戒めになるどころか逆に侍が英雄視されると理解し中断させたそうである。
慶応4(1868)年2月15日、泉州・堺港に上陸したフランス軍の水兵22人を警備中の土佐藩士が殺傷した事件は重大な外交問題に発展する。フランス側が巨額な賠償金と発砲にかかわった藩士の処刑を要求してきたのだ。国力の差から要求をしぶしぶ受け入れるしかない新政府と土佐藩は被疑者の中から20人の処刑を決める。その選び方というのが過去の歴史的な重要案件でもたびたび登場したくじ引きだった。
●被疑者は29人
事件の翌日、任務を解かれた土佐藩の6番、8番両隊の73人は、18日に長堀の藩邸(大阪市西区)で藩の警察機関「下横目(したよこめ)」による聴取を受けた。
ちなみに当時の堺は外国人遊歩地域として認められていたため無断上陸ということはあり得ず、フランス側の記録には、事件での水兵による土佐藩士への発砲の記録もないという。
このため、在日フランス公使のレオン・ロッシュが今回の事件で、土佐藩に遺族への賠償金として15万ドル(7、8億円相当)の支払いや、発砲にかかわった全員の処刑などを求めてきたのだ。
家老の深尾鼎(かなえ)が見守る中で別室に1人ずつ呼び出しては事件のときの射撃の有無を確認したところ、「発砲した」と供述したのが29人にのぼった。
関係者以外は席を立って随時、土佐に帰国していったのに対して大坂にとどまった29人は22日、藩主らの申しつけとして次のことを言い渡された。
朝廷から20人の下手人を差し出すように申しつけられたが、誰を下手人にしてよいものかわからず、皆で藩邸の稲荷神社に参り、くじで決めるほかない-と。
●生死はくじ次第
29人全員が死罪になるはずだったが、そうなると世論が攘夷(じょうい)に傾き、騒動が起こることを懸念した新政府がフランス側と交渉し、隊長以下20人ということになったのだという。
それで、すでに死罪が決まっている6番隊・箕浦猪之吉、8番隊・西村左平次の隊長2人と小頭2人の計4人以外の16人の生死を稲荷神社でのくじ引きで決めることになった。
現在の大阪市立中央図書館の北西隣に建つ土佐稲荷神社は18世紀初頭、伏見稲荷から神を勧請して藩の蔵屋敷に祭ったのを始まりとする、まさに藩の守護神といえる存在だった。
そんな社殿前に集まった25人は、下横目の呼び出しに1人ずつ出て行き、大目付の小南五郎右衛門が持つくじを開いては、下横目に渡すといった行為を繰り返していった。
くじを見た24人は一様に平然としていたのか、あるいは死罪と決まり涙を流したり、助かって安心とも残念とも受け取れる複雑な表情をみせたりしていたのだろうか。
神社は一般にも開放していたため、参道を藩士らが取り囲む中で進んだ、この厳かでピーンと張り詰めたやりとりに出くわした参拝者の中には奇異に映った人もいたことだろう。
そして箕浦ら20人は翌23日、事件現場近くの日蓮宗寺院、妙國寺で切腹することに決まった。
●畳、木綿、そして毛氈(もうせん)
23日は晴天だった。20人は藩から出された酒をいただいた後、用意された駕籠(かご)に乗り込む。周囲は熊本、広島両藩の兵に護衛されながら堺へ向かった。
沿道には、話を聞いて駆けつけた関係者や市民らがいた。大和川を越えて堺に入ると、これまでとは比べようもないほどに多くの人が集まり、手を合わせてすすり泣く人もいた。
長堀の土佐藩邸から約8キロの道のりを経て駕籠は妙國寺の山門前に着く。現在の山門は寺の北側に建っているが、当時は寺の南側にあり、門の脇、土塀に沿って20人分の白木の棺おけが一列に並んでいた。
駕籠はそのまま境内へ入り本堂まで行くとようやくとまり、20人は降りた。本堂前の広場が切腹の場所らしい。
しばし時間があるということで20人は境内を散策することになり、「死に場所も見ておこう」と中に入ると、山内家の家紋が入った幕に囲まれた空間の中、四隅に立てた竹ざおと茅葺(かやぶ)きの屋根でできた簡素な建造物が目にとまった。
地面には粗いムシロが敷かれ、上質の白木綿で覆った2枚の畳、さらにその上に毛氈が重ねられ、傍らには人数分の毛氈が積んであった。
微妙な心境に誘われた20人だったが、そうしているうちに処刑は午(うま)の刻、つまり正午からと告げられる。最期の時がいよいよ迫った。(園田和洋)
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堺事件
死刑執行[編集]
2月23日(3月16日)、大阪裁判所の宣告により堺の妙国寺で土佐藩士20人の刑の執行が行われた。切腹の場で藩士達は自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵を大喝した[6]。その凄惨さに、立ち会っていたフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアール(Abel Bergasse Dupetit-Thouars)は、(フランス人の被害者数と同じ)11人が切腹したところで外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請し、結果として9人が助命された。一説に、暮色四辺にたちこめ、ついに日暮れるに至り、軍艦長は帰途における襲撃を恐れたからであるという。本人の日誌によれば、侍への同情も感じながら、この形での処刑はフランス側が望むように戒めになるどころか逆に侍が英雄視されると理解し中断させたそうである。
逆に侍が英雄視されると理解し中断させたそうである。
フランス側の望みは只の優位性か、最後まで形
活目して見届けることも出来なかった意気地なし。
くじ引きで 切腹
自らの腸を掴み出し、居並ぶフランス水兵を大喝した[6]。
侍は辛いね=意地と根性で藩に仕える身だから
大和魂、忠誠心、大儀、そのフランス様の望み。
(切腹しなきゃならん事件だったのか)水兵さんに。
外国局判事五代友厚(才助)の力不足じゃないのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A4%BC%E6%9C%8D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Teenager_Meiji_Emperor_with_foreign_representatives_1868_1870.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%98%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%B3
(ちんちめい)
世界征服
支配地をめぐってくじをめぐってくじ引きをし、
それぞれ天空と海と冥界の主となった。
・・・功績から神々の最高権力者と認められた。
欧羅巴神話
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E8%B4%84
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%B3
最強
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%AF%8D%E7%A5%9E
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E9%A6%AC%E7%AB%A5%E5%AD%90%E5%83%8F
ふれあい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A4
鎮め物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA
極楽(堺市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%81%AE%E9%90%98
☆哲学
自由