若い頃は、シニカルに世の中を見ていたけど、
中年になってきたら、生きていることを
奇跡のようだと思うようになりました。
はい、能天気なので。
ありがたや、ありがたや~、なんて。
悲観的になっても生きる力は出ないので。
生きるなら、身も心も精神も
フルに使って生きられたらいいな、と思うので。
精神の問い。
哲学的なこと、とも言うのかな?
自分が何をするために生まれてきたのか、
自分にとって本質的なことは何なのか、
何を残していきたいと思うのか…。
そういうのって、ふつーは青春時代に苦しむ問いなんだろうけど、
大人になってもその問いから離れられない。
そういう性質だと、
ノリで軽く楽しめばいいような所では
なかなか生きにくいことも多いんだけど、
そういう問いを暖め続けていると、
しんどさを通り越して、
そういう事考える方が楽しくなってきた。
若い頃は、まさか自分が50になって
まだこんな事を考えてるとは思ってなかったけど(^^)。
最近、そんなテーマで話す機会が何度かありました。
読書会に集まった人たちに「何か宿題してきます?」って聞いたら、
「じゃあ、不愉快だったことが
自分に何を教えてくれたか考えてこよう」とか、
「気になっている事をほどいてみて、
自分にとって本質的な事は何かを考えてこよう」とか、
めっちゃ本質に迫る宿題になるのです(^^)。
子どもの頃は宿題なんてウンザリだったのに、
自分が学びたいと思うことについての、
こういう大人の宿題って、ホントに楽しい。
そして、宿題をしてきたら、次の回で発表します。
一人ひとりが、真面目にそれを考えて、自分の言葉で。
それぞれの話されることが、全部その方の正解。
同じテーマとは言え、
誰かが考えて話してくださる事は、
絶対に自分の答えとイコールではない。
だけど、本質的になればなるほど、
どこか、高い所で自分とつながる所がある。
自分と違う経験や考えを示してくださるおかげで、
自分の考えていることがより鮮明に見えて来たり、
自分が届かなかったところを照らしてくださったり。
まずは、自分で考えることから始めて、
(ここ大事!↑)
できたら、誰かとそんな話題で話してみる。
都合よくそんな人がつかまらない時は、
メモしておいて、翌日そのメモと対話してみる。
どんな方法でも、考えは少しずつ深まっていく。
私にとっては、とても愛おしくて大切な時間。
中年になるとツラの皮が厚くなって、
「神様が生きてていいって言ってんだから、
“私は何も実ってない”って卑下したり、
“人間なんていない方がいい”なんて思わなくても、
自分ができる範囲で自分がいいと思うように生きていい。
それで実ったら動物の、枯れたら大地の養分になるさ」
って思えてきた。ザ・50のめぐみ。
美しい春(青春時代)や、清々しい夏(朱夏)には、
とても思えなかった色づく秋(白秋)の心境です。
秋は葉っぱの色だっていろんな色で落ちて行くから、
人もいろんな色でいいの。
あ、そういえば、自分の個性が際立つのは、
夏、花が咲く頃かもしれない。
私の花はアナタの花とは違う、って。
子どもの頃、芽や葉っぱの間はそれほど目立たなかった違いが、
青年期以降、花の頃になって、ごまかしようもなく際立つ。
んで、うそ、そんなに違うの?って焦って、
必死で人と合わせたりしながら自分の花を守る。
おもしろいなぁ。
んで、実っても実らなくても秋は来る。
枯葉でもいいの。
葉っぱが落ちなきゃ、山は栄養のない岩山のままだもの。
あ、今までの話、物理的な意味じゃなくてね。
時間の流れって大きいね。
実には実の、落ち葉には落ち葉の意味があると、
素直に受け入れられるようになった中年時代。
若い頃に外に向かっていらだっていたあれこれは、
真実を求める気持ちが強かったからだと思います。
理想的な人間と比べて、自分はイケてない!とかね。
今ちょうど、中2の子どもがそういう時期に突入したところ。
年と考えを重ね、理想と自分との関係も変わってきた。
理想と自分、理想と今の社会を比べて、
全然足りない!ってイライラするんじゃなくて、
理想は遠くに輝く太陽のようなもので、
自分は大地で育つ雑草のようなものだと理解した。
理想は理想として、自分の上に燦然と輝き、光を受け取る。
自分が伸びたい方向を示してくれている。
だから、ただ太陽に向かって伸びればいいのだ、と
いつの間にかふつーに引き受けられるようになっている。
退化、かもしれないけどね。
それでも人間ってすごい!って思えるのは、
仰ぎ見る理想を、一人ひとりが自分で設定できること、
親が蜜柑でも自分が望めば柚子に、いや、
もっと言えばゴーヤにでもつゆ草にでもひまわりにでもサボテンにでも…
なれる可能性が開かれていること、なんだよね~。
決して市場には出回らない、蜜柑としての規格を逸脱している、そんな蜜柑が実際にあるわけです。
水分が木の隅々まで行き届かず、葉が萎れてしまって光合成も満足にできないのにも関わらず、尋常ではないこの味は、昨年まで収穫していた同じ蜜柑だとは到底思えないほどです。
枯れゆく木に成る実は、健全ではない木として収穫は不可能、また選果対象外であり伐採対象になるわけです。