『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

実には実の、枯葉には枯葉の

2020年10月11日 | 考える日々
若い頃は、シニカルに世の中を見ていたけど、
中年になってきたら、生きていることを
奇跡のようだと思うようになりました。

はい、能天気なので。
ありがたや、ありがたや~、なんて。
悲観的になっても生きる力は出ないので。
生きるなら、身も心も精神も
フルに使って生きられたらいいな、と思うので。
 
精神の問い。
哲学的なこと、とも言うのかな?

自分が何をするために生まれてきたのか、
自分にとって本質的なことは何なのか、
何を残していきたいと思うのか…。

そういうのって、ふつーは青春時代に苦しむ問いなんだろうけど、
大人になってもその問いから離れられない。

そういう性質だと、
ノリで軽く楽しめばいいような所では
なかなか生きにくいことも多いんだけど、
そういう問いを暖め続けていると、
しんどさを通り越して、
そういう事考える方が楽しくなってきた。

若い頃は、まさか自分が50になって
まだこんな事を考えてるとは思ってなかったけど(^^)。

最近、そんなテーマで話す機会が何度かありました。
読書会に集まった人たちに「何か宿題してきます?」って聞いたら、
「じゃあ、不愉快だったことが
自分に何を教えてくれたか考えてこよう」とか、
「気になっている事をほどいてみて、
自分にとって本質的な事は何かを考えてこよう」とか、
めっちゃ本質に迫る宿題になるのです(^^)。
 
子どもの頃は宿題なんてウンザリだったのに、
自分が学びたいと思うことについての、
こういう大人の宿題って、ホントに楽しい。
 
そして、宿題をしてきたら、次の回で発表します。
一人ひとりが、真面目にそれを考えて、自分の言葉で。
それぞれの話されることが、全部その方の正解。
 
同じテーマとは言え、
誰かが考えて話してくださる事は、
絶対に自分の答えとイコールではない。
だけど、本質的になればなるほど、
どこか、高い所で自分とつながる所がある。

自分と違う経験や考えを示してくださるおかげで、
自分の考えていることがより鮮明に見えて来たり、
自分が届かなかったところを照らしてくださったり。
 
まずは、自分で考えることから始めて、
(ここ大事!↑)
できたら、誰かとそんな話題で話してみる。
 
都合よくそんな人がつかまらない時は、
メモしておいて、翌日そのメモと対話してみる。
どんな方法でも、考えは少しずつ深まっていく。
私にとっては、とても愛おしくて大切な時間。

中年になるとツラの皮が厚くなって、
「神様が生きてていいって言ってんだから、
“私は何も実ってない”って卑下したり、
“人間なんていない方がいい”なんて思わなくても、
自分ができる範囲で自分がいいと思うように生きていい。
それで実ったら動物の、枯れたら大地の養分になるさ」
って思えてきた。ザ・50のめぐみ。

美しい春(青春時代)や、清々しい夏(朱夏)には、
とても思えなかった色づく秋(白秋)の心境です。
秋は葉っぱの色だっていろんな色で落ちて行くから、
人もいろんな色でいいの。

あ、そういえば、自分の個性が際立つのは、
夏、花が咲く頃かもしれない。
私の花はアナタの花とは違う、って。
子どもの頃、芽や葉っぱの間はそれほど目立たなかった違いが、
青年期以降、花の頃になって、ごまかしようもなく際立つ。

んで、うそ、そんなに違うの?って焦って、
必死で人と合わせたりしながら自分の花を守る。
おもしろいなぁ。

んで、実っても実らなくても秋は来る。
枯葉でもいいの。
葉っぱが落ちなきゃ、山は栄養のない岩山のままだもの。
あ、今までの話、物理的な意味じゃなくてね。
 
時間の流れって大きいね。
実には実の、落ち葉には落ち葉の意味があると、
素直に受け入れられるようになった中年時代。

若い頃に外に向かっていらだっていたあれこれは、
真実を求める気持ちが強かったからだと思います。
理想的な人間と比べて、自分はイケてない!とかね。
今ちょうど、中2の子どもがそういう時期に突入したところ。

年と考えを重ね、理想と自分との関係も変わってきた。
理想と自分、理想と今の社会を比べて、
全然足りない!ってイライラするんじゃなくて、
理想は遠くに輝く太陽のようなもので、
自分は大地で育つ雑草のようなものだと理解した。

理想は理想として、自分の上に燦然と輝き、光を受け取る。
自分が伸びたい方向を示してくれている。
だから、ただ太陽に向かって伸びればいいのだ、と
いつの間にかふつーに引き受けられるようになっている。
退化、かもしれないけどね。

それでも人間ってすごい!って思えるのは、
仰ぎ見る理想を、一人ひとりが自分で設定できること、
親が蜜柑でも自分が望めば柚子に、いや、
もっと言えばゴーヤにでもつゆ草にでもひまわりにでもサボテンにでも…
なれる可能性が開かれていること、なんだよね~。



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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ZIP)
2020-10-11 10:41:46
来年はおそらく実を成らすことが不可能であろうと思われる枯れゆく木に成る蜜柑の味が、美味この上ないことを知っている人は非常に少ないわけです。
決して市場には出回らない、蜜柑としての規格を逸脱している、そんな蜜柑が実際にあるわけです。
水分が木の隅々まで行き届かず、葉が萎れてしまって光合成も満足にできないのにも関わらず、尋常ではないこの味は、昨年まで収穫していた同じ蜜柑だとは到底思えないほどです。

枯れゆく木に成る実は、健全ではない木として収穫は不可能、また選果対象外であり伐採対象になるわけです。
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Unknown (オキツ)
2020-10-11 14:37:24
せつない話ですね。そして、そんなにおいしいんですね!みかんを育てている人だけが、切る痛みと共に味わえる味なんでしょうか。どんな味なのか、食べる機会があれば大切にいただきたいものです。
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Unknown (ZIP)
2020-10-12 20:16:44
本質を問うことは、必ずしも考える得る対象に属さないこともあるわけです。
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Unknown (オキツ)
2020-10-13 20:00:38
考えられることと、考えられないこと、両方あるのですね。確かにそうかもしれません。
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