『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

泣き言を言っていたら

2021年03月11日 | 『自由の哲学』
物質が豊かになることを大事にする世界と、
精神的な充実や人としての成長を大事にする世界の、
両方の世界に橋を架けたいと、
夢みたいなことを、ずっと願っている。

その思いに正直になると、
どうしても思いと現実が折り合わない。
そしてそれを、
自分の乗っている船のせいにしてしまう。
もしくは「現実は甘くない」なんてことを言いたくなる。
イケてないなぁ~。

乗り心地はいいし、人にも恵まれていた。
乗組員としての仕事はちゃんとしたいけど、
どうも船の行先が
私の行きたいところとは違うようで。

「じゃあ、降りたら?
今すぐ飢え死にするわけじゃなし」。
そんな風に、私が耳元でささやく。
世帯主ではないワガママで迷った末に降りてみた。

そして、私個人は貯金を食いつぶしながら、
子どもが巣立って行く様子を間近に見られる喜びの中、
講座だの校正だのライターだの勉強会だの読書会だの、
あれこれやっては自信を失い続け、
もはや、何をやってんだかわからない日々。

以前の船は、雨も降るし、風も嵐も来るけど、
優秀な乗組員たちが協力して進んでいくおかげで、
とても安心な場所だったのだと、
今さら、思い知らされている日々。

知ってたけど。

羅針盤もエンジンもガソリンも持たずに、
「とりあえず降りてみる」と
思いひとつで小舟で漕ぎだすのが、
いかに無謀か、ってこと。

めっちゃ知ってたけど(^^;)。

若い頃の無謀は、
無謀だというだけで誇りになった。
「自分の価値観で生きていくぞ!」みたいな。
愛されて、何なら人がサポートまでしてくれる。
それを当たり前のように受け入れて、
失敗したって全然平気だった。

中年の無謀は、若い頃の無謀とはずいぶん違う。
周りのデキる人とも比べるし、
自分のデキなさ加減に、どんどん自信がなくなっていく。

それでもいろんな人が近くにいてくださる事に
感謝を越えて、申し訳なさを感じたり、
思うように応えられない事に情けなくなったり。
昔は、当然のように助けてもらっていたのにね~。

エラソーに「橋を架けたい」って思ったところで、
物質界のルールも、よくわかってないし、
精神界のルールなんか、全然わかってない。
どっちも、めちゃくちゃ中途半端。

そういう自分の現在地を思い知っている
今日この頃。

そんな煮詰まり状態に気づいてくれた人がいて、
しかもそれが、心配ではなく“あるある”な感じだったので、
「そうなのよ~~~!!」と安心して泣き言を言っていたら、
「躓(つまづ)くのは、いいよね~♪」と言ってくれる。

だよね~。
自分で望んで降りたんだもの。
言ってみれば「思い通り」よ。

思い通りにならない不満は、自分自身に向かい、
周囲に対しては、感謝や愛がドガドガ溢れてる!
愛を持てない方面とは付き合いがない、
とも言えるけど(^^)。

そんな変化があっただけで、
自分比、めっちゃ前進。
バカなりに自分で決めたことだもの。
そこは誇り持てるな~。これぞ自由の哲学。

…と、破れかぶれながら、
人の言葉ひとつで気持ちが復活する。

そこに理屈はいらない。
ありがとう。愛してくれて。



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