いろんな勉強をすると、
自分の出来ることが増えて楽しい。
最近だと、ごはん作ることが多いので、
ごはんを作っていると、妙に楽しい。
土井善晴さんの影響もあって、
地球と人間の間に立って、
自然の恵みを、おいしいごはんに変える役目。
作る人、食べる人との共同作業。
食べてもらって嬉しい。食べて嬉しい。
とか考えると、うん。
飯炊き係っていいねぇ~!
それはいいけど、私にとって、
シュタイナーの勉強、
もっと言えば、
自由の哲学って、性質が違う。
何なのかな~って思ってたんだけど、
今日、ちょっとわかった。
あれはOSなんだ。
パソコンの基本のオペレーションシステム。
それがないと使えない、WinとかMacとか。
シュタイナーの、たとえば、
教育とか、農業とか、フォルメンとか、
気質とか、オイリュトミーとか、社会問題とか…は、
もう少しアプリ寄りって感じがする。
えーと、具体的に役立つ方。
4大著書は、みんなOS的だけど、
中でも最もOS的なのが、
「自由の哲学」っていう気がする。
それを読んでいるのといないのとでは、
他の本の読み方が、根本から変わる。
読んでなければ、
「この本に書いてあることをちゃんと理解して、
それを、たとえば“子育てに活かそう”って、
本にあるのと同じおもちゃを買って、テレビを禁止して、
こういう食事が良くて、これは悪くて」
…とかやっていくんだと思う。
そんな時期、私もあった。
真面目に取り組めば取り組むほど、
誰もが通る道のような気もするけど。
一方、「自由の哲学」が沁みてきたら、
「書いてあることをちゃんと理解して、
それを子育てに活かそう」というのは同じだけど、
「書いてあることを鵜呑みにしないで
目の前のものに応じて、自分で考えよう」
っていう方が「肝」だとわかるしなぁ~。
考え方を理解するのは深すぎて難しいから、
実践モデルをコピーしたくなるけど、
目の前の状況に合わせて
自分なりにアレンジしていく。
そうやって、変わっていくことで、
1人のアイデアに留まらずに
時代の中で磨かれていく。
前者は、そういうのに興味がない友達と、
仲悪くなったりするけど、
後者なら、自分と違う考え方の友だちとこそ、
ゆっくり話をして、「本当」に至ろうと出来る。
だから、
「正統な伝承のために、アレンジは許さない」とか、
「シュタイナーはそんなこと言ってない」とか、
「子どもにはこれしか食べさせない」とか言うのを聞くと、
なんかがっかりしちゃう。
自分で見て、自分で感じて、
そこから自分で考えて自分で動いていくことは、
最後まで手放したらアカンことやと思います。
自由とは不透明さ
自由とは複雑さ
自由とは関わることのできる
環境であり世界である。
自分とは変わりゆく環境に関わることで、絶えず他のものと区別し、同じまとまりとして保ち続けるプロセスのこと。
だからこそ
自分で見て
自分で感じて
自分で考えて
自分で動く
神智学ではなく
あくまで人智学
先ずは自分という前提からもう一度・・・
という感じでしょうか。