
「結論は最初に書けない。
なぜなら、書きながら考えているから、
その間に、結論がどうなるかわからんもーん」
と、昨日書きました。
でもその2日前に
「入学式には桜でしょ」って書き始めてるよ、私。
あれ? 最初に結論があるじゃん。
やってることと考えてること、違うやんけ~(^^;) 。
あかんあかん。あきませーん。
何かを書き始めるのに最初に必要なのは、
「結論」じゃなくて「問題」だよね。
「今からコレについて考えます」と。
そして、注意深く真摯に考えを進めていく。
そういえば、昔、介護に行ってたおうちの中学生の子どもが
人権作文の宿題が出たとかで、
原稿用紙の1行目に「差別ってなんだろう」って書いて、
そのまましばらく、机の上に放置してた。
だって、母親が24時間介護の必要な障碍者で、
その人と、日々、怒られたり愛されたりしてふつーに暮らしてる。
そんな少年が考えて絞り出した「差別って、何だろう」の作文は、
幾万の「差別はいけない」作文とは一味違う。
最初に問がある。
あれが、考えを進めるのにふさわしい態度だと思う。
だから、おとといの私の場合は、
「入学式は桜でしょ」という「そうあってほしい」思いから入るんじゃなくて、
「9月入学という案について、私はどー考えますか?」
っていう問いで始めるのがふさわしかったんだな。
「入学式には桜でしょ」から始めた場合は、
それに都合のいいものだけを選択的に集めるから、
「ホントはどうするべき?」ってことに届かない。
「私、正しいでしょ」しか言ってない。
「私が正しい」って言うから、
「そうでない何かはおかしい」って言っちゃってるし。
「私」vs「だれか」の二元論だな。
「私たち」で考えたら、「正しいでしょ」で終わらずにすむ。
ただ、結論ありきの一昨日の場合も一概に無駄なわけじゃなくて、
自分の違和感を大切にすくい取って、
それについて調べたり考えたりすることで、
「自分はなぜ、そう考えているのか」がクリアになった。
「入学式は桜でしょ」と思う私なりの理由がクリアになったら、
その考えが正しいのか、検討しやすくなるし、
その理由の価値が下がった時に考えなおしたり、できる。
「だから4月はじまりが正しいのよ」
と主張するために、自分の考えを使うんじゃなくて、
自分を縛る「今日の自分の考え」から、
明日の自分を自由にするために。
変わることは、負けることじゃなくて、
成長していくことやからね。
夫婦喧嘩も、きっと自分が変わった方が早い(^^)。
自分の考えにさえ縛られるのに、
外からの洗脳を解くのって、ほんと難しいやろうな~。
思い入れがあればあるほど、
自由に考えるってのは、難しいね。
どういう時に自分の考えが変わるのか、
ちょっと意識してみよ。
いくら考えても揺らがないところはどこか、
とかも。
私の場合は、そだなー。
人が育つってことは、
外から何かを取り入れることじゃなくて、
自分の中にあるものを磨いて、外に差し出していく、
ってことなんやろな~と思ってる。基本姿勢として、ね。
あ、今めっちゃイイコトこと言った気がする(^^)!
ではまた~。
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