もうすぐお正月。
神社のこと、日本の神様のこと、
全然わかんないし、
何がわかればわかったことになるのかもわかんない。
でもあの静けさが気持ちよくて、
お正月でもないのに、
ご近所の神社に行ってきました。
廣田神社、六甲山神社(白山神社)、
甑岩(こしきいわ)神社に、
神様好きなお友達とプチ遠足。
彼女があれこれ解説してくれるおかげで、
神様にちょっと近づける感じ。
通じないもどかしさにくじけず
いろいろ教えていただき、感謝です。
廣田神社では、ひたすら晴れ渡る青空が
本当にすがすがしかったです。
縮こまる寒さじゃなくて、背筋が伸びる寒さ。
広々した青空に向かって、手を広げ、
「日本の冬、いいなぁ〜」って
思わず口に出していました。
奇しくも、昨日は冬至でした。
闇から光へ。
2番目。六甲山神社(白山神社)。
とても場所がわかりにくいので、
行かれる方はご注意ください。
小さな鳥居をくぐり、
ケモノ道的な小径を上へ上へ。
龍のようにくねくねした道を上がります。
まるで、龍の背中をたどっているような感覚で、
上へ上へ。
聞こえるのは、たった一羽の鳥の鳴き声。
その昔、神武天皇がピンチに陥った時に、
ヤタガラスが先導してくれたという、
古事記のイメージを重ねたりして。
おお、古代ロマン(^^)!
ここで気になったのは、
石の宝殿という祠を包んでいる数本の木立。
それぞれが主張することなく、
数本があたかも1本の大きな針葉樹のように
なめらかな曲線を描いている景色。
1本1本を見ると、美しい円錐形ではなく、
外に面している所は葉っぱがあるけど、
隣の樹と接している所は、お互いにスカスカ。
でも、全体ではひとつにまとまっている。
自分の幹は、ただ、まっすぐに立っている。
隣に近づくために、または離れるために
不自然に曲がるわけでもなく、
ましてや、
ツタのように、大きな樹に絡みつくわけでもない。
ただ、まっすぐに立っている。
樹と樹が重なった所の小枝は、
お互いに折り合いを付けて、
全体として、ひとつにまとまっている木立。
その潔さ、美しさ。
奇しくも
あ、この言葉2回目。
やっぱり奇しい場所?なのね、神社って。
えーと、戻って。
奇しくも、
ここの祭神(?)は、キクリヒメ。
闇と光を融合させる神様だって!
自分を光、相手を闇に認定して、
敵対したって始まらない。
誰も、敵の話なんか聞きたくないもの。
男と女、大人と子ども、社会と自分、
会社と家庭、北朝鮮と他の国…。
私が融合したいところはどこ?
そして私が融合していけるところはどこ?
今日行った神社の中では、
ここが別格に神々しい気分になれた。
いつまでも耳を澄ませていたいような。
自分が開かれている状態。
ほんと、フシギな感覚だったな〜。
さて、3つめ。甑岩(こしきいわ)神社。
境内に野放図な樹があって、
それがやたら気になった。
この樹って、自由の象徴?
それともワガママの象徴?
聞こえてくるのは、車の音、
かまびすしい何羽もの鳥の鳴き声。
神社にしては「生命力過多」。
…と言って悪ければ、
生命力がみなぎる印象だったな〜。
六甲山(白山)神社が、神聖なる能舞台なら、
甑岩神社は躍動感あふれる劇団四季、
くらいの差を感じたりして(^^)。
大きい岩って、それだけで迫力。
地球を見てきたんだな、って。
あなたが地球なんだな、って。
あ、今思ったけど、
2つめの六甲山神社は、天空の感じ。
はるか昔からずーっと、
上から光を与え、精神を養ってくれている感じ。
3つめの甑岩神社は、大地な感じ。
はるか昔からずーっと、
下からしっかり支えて、
命の糧を与え、養ってくれている感じ。
1つめの廣田神社は…、
うーん、そうだなー。
子どもの遠足に良さそうな健全な感じ(^^)。
だって、突き抜けて明るいもん。
こんなことを感じながら歩き、
朝から夕方まで、ずーっと話をしてました。
神々のこと、人間のこと、男女のこと、
今の世のこと、自分にできること、教育のこと、
芸術のこと、これからの仕事のこと、などなど、
いろんな話が咲き誇ったり、
時々、つぼみのまま落ちたりしました。
神々が(たぶん)見守る中で、
自分の考えをそっと取り出して
受け取り合える、暖め合えるというのは、
ものすごく贅沢でシアワセな時間でした。
ゆっくり、静かに感じよう。
んで、
それを忘れないように話をして
対話しよう、対話(^^)/
神社でもどこでも、
ココロ開ける相手と謙虚に対話する所に、
何かが降りてきてくれる気がする。
まぁ、初詣は、後ろの人が気になるから
ゆっくりもできないけど、
来年のお正月は、どこかで1分だけ目を閉じて、
気になるものを受け取ってみては?
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