『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

これって江戸時代の感覚かなぁ?

2022年07月19日 | 神戸シュタイナーハウス
食べ物って「台所事情と直結」の、
プライベートなもの、という感覚がある。
何なら見られてハズカシイ、みたいな。

これって、昭和の感覚かな?
もしかして、江戸時代かも。

だからこそ、
一緒にごはんを食べると、
同じ懐に入ってぬくぬくできたみたいで
仲良しになれるんだけど。

ごはんに対するそんな感覚を残す私は、
外向きにごはんの話をしたり、
写真を載せたりする時は、
ちょっとだけ見栄を張りたくなる。

そのくせ、野菜をどう食べた、とかの話は
書いてて楽しいんだよね。
なんだろね、この感覚の違い。
不思議だな~と思っていたけど、
ちょっとわかった気がする。

初めてのお店で食べると、
良くも悪くも評価してしまう。
値段のわりにどうとか、評判のわりにこうとか、
また行きたい店かどうかを判断する。

ごはんや真心を評価したくないのに、
評価しなくちゃいけなくなるという状態は、
「どんなごはんでも感謝していただこう」
という思いとの間でケンカになる。

それに比べて、
人んちや知ってるお店で食べさせてもらうと、
自然や作ってくれた人への感謝100%で満たされる。

また、自分で育てて採って作って食べたりすると、
食材を生かすための工夫や、創造の楽しさが、
日々、小さな楽しみを連れて来てくれる。

たとえば、昨日書いたようなことでも。
あ、忙しくない時にはね。

日々の、自然と調和したリズム、
ちょっとした手間と、それに伴う小さい喜び。
それが定期的に繰り返す波になって、
日常を作っていくのが、日々の普通のごはん。

忙しくて寝る時間もなかった=体力のあった時代には、
栄養バランスゼリーやシリアルバーを片手に、
命のために「餌」「ガソリン」「電源」として、
ありがたいとも何とも思わず、食べてた。

若い頃のそんな時代には、
思いもしなかったような豊かさ。

昔は、邪魔にしたり、ねじ伏せたり、
コントロールしようとしてた、
ノイズに思えたまわりのアレコレ。

今、耳を澄ませば澄ませるだけ、
いろいろ教えてもらえるんだよね、
まわりの何気なく調和したいろんなことから。
まだまだ全然聞き取れないんだけど、予感はある。

いろんなモノやコトから教えてもらうための
濁りのない透明な目を育てる練習。
受け止めるために心をやわらかくほぐす練習。
そんな豊かな自分を育てるヒントとしての、
毎月1回の「認識の小径」の時間。

案内人のhasutamaさんに頼りっぱなしで、
案内し甲斐のない生徒なのは自覚してますが、
日々を豊かにしてくれる、私を育ててくれる、
楽しみな時間のひとつです。

あ、最後は宣伝になっちゃった。
ご興味ある方は、どうぞご参加ください。




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