それに、どうして情が閉め出されなければならないのか。
情を持てば、その情が快にもなる。
不快な情もあるけど、情に振り回されるのではなく、
不快な気持ちを、精神の力でしのいだ時は、
「自分って結構やるな~」という快に変わる。
それは、うぬぼれじゃなくて、
「成長したな~」と、しみじみ思うたぐいの快。
気持ちの快じゃなくて、精神の快だけど、
だからって、快の意味は劣るわけじゃない。
ある感情が幻想と結びついているからと言って、
情を生きる快から引き去るのは、
生きるの値を、量じゃなくて質に関わらせ、
快の原因が値打ちのあるものかどうかによって
快の値を決めようとしている。
でも、生きる価値があるかどうかを
快・不快の量から決めようとするなら、
ちゃんと感情の快・不快の量ではかるべきだ。
私が快と不快のどちらが多いかを比べて、
どちらが多いかと見ようとするなら、
実際に自分が感じた感情の快・不快の量で、
生きる値を見るのが筋だろう。
快・不快の原因がどうあれ、
それが幻想であれ関係ない。
幻想による快に、
理性で納得できる快より高い値打ちを付けるなら、
その人は、生きる値打ちを
快・不快とは別のもので決めていることになる。
※
気持ちの不快を精神の力でしのぐ。
これは、その気持ちをごまかしてガマンすることとは根本的に違います。
ちまたのポジティブシンキングとも、まったく違います。
快や不快を感じた気持ちを、そのまま受け止めて、
しかし、それだけに自分を躍らせることなく、
自分がどうしたいのかを精神の力で加味して動く。
自分の手綱を、気持ちだけに持たせず、
気持ちも体も精神も含めた、自分の全体で持つ。
反射的に「無理!」って思って避けるだけじゃなくて、
考えてみて、受け入れようと考えたなら受け入れたらいい。
そういう感じを「気持ちを精神の力でしのぐ」って
表現しているのだと思います。
逆に、精神だけの力に手綱を握らせたって失敗します。
「やだな」と思った時に、その気持ちを黙らせて、
「受け止めるべき」と無理することがありませんか?
私は、よくあります。
話をしていると頭痛がしたり、気持ちが真黒にベトついたり…。
体も心もSOSをいっぱい発しているのに、
「精神に手綱を持たせよう」と思って、
精神だけの言うことを聞いて、
もうちょっと頑張れる、頑張ろう、と付き合い続ける。
そして、深みにはまって玉砕したことも。
精神の言うことを聞いて受け入れてみて、
体や心がどうしても無理だったら、それも受け止めてあげたい。
自分はカンペキじゃないんだから、そんな時があるのは当然。
いい教訓になっています。
ただ、「やだな」と思うままに避けてもいいけど、
いったん精神の力が「理解したい」と言うなら、
向き合ってみることもできます。
気持ちを精神の力でしのぐ、オトナの力です。
向き合えば、理解し合えることの方が多いですよね。
そういう時の喜びはひとしおです。
それから、快・不快は、その感情を引き起こす対象によって
レベルが変わるのか、という話。
野球の試合に出るのと、
テレビゲームでピコピコとプレイするの。
前者は実際で、後者は幻想、だとして。
バーチャルのゲームで勝つ喜びは、
実際にプレイする喜びより、低いのかどうか。
これが論点。
個人的には、低いと思います。
バーチャルなら何度でもやり直しできるし、
指先ひとつで選手を動かせます。
実際に動くなら、素振りして手にマメを作って、
坂道ダッシュして体力をつけて、
仲間のかけてくれる言葉で緊張をほぐして…。
喜びだって、落ち込みだって、全然違います。
じゃあ、将棋やオセロは?
AI知能搭載(?)のコンピュータ相手に、
名人と呼ばれる人が将棋を指します。
知恵を振り絞って、やっと勝ったとします。
めっちゃくちゃ嬉しいんじゃないだろうか。
人を相手に対局するのと同じように。
って、私にはわかんない。
それが名人にとってバーチャルな勝負なのかどうかすら。
人 VS コンピュータ、という象徴を背負っての対局、
これは、真剣勝負だろうな。
自分が真剣になればなるほど、
快も不快も大きい気がする。
ひまつぶしでやってるゲームなんかでは、
快も不快もそれほど大きくはならないだろうし。
つまり、快・不快の質は、
現実かバーチャルかということではなく、
自分の相手との関わり方で決まる。のか。
だから、他人が「その快は質が高い」だの「低い」だの、
幻想だの本物だの言うことは意味がない。
感情はそのまま認めてあげたらいい。
ゲームであろうと、快は快。
草木染めは高い快で、染料で染めるのは低い快、
なんてこともないし、
ピカソのクレヨン画は高い快で幼児のは低い快、
なんてこともない。
映画は高い快で、テレビは低い快、
なんてこともないのです。
どっちも、値は違うだろうけど、
自分が「快」と感じるなら「快」なのです。
世間評価と「私が生きる」快・不快は連動していません。
他人の評価や、世間の相場ではなく、
自分が「おもしろい」と思うか、「くだらない」と思うか。
そこは、自分で自由に感じるままに受け止めて、
「あ、私はこういうのが好きなんだな」って
思えたらいいと思います。
昔、美術館で友人が
ピカソやゴッホやゴーギャンなどに見向きもせずに
無名の人の絵にまっすぐ向かって、
「うわっ、私こういうの好き!」って貼り付いたのを
「カッコいいな~」と感じたのを思い出します。
私はと言えば、
「印象派って、どういう特徴があるんだろう」って
アタマから理解しようとしてました。
んで、自由なその子に解説したりして。
ああ、若気の至り。
見る目の自信のなさを、知識で補っていたのでしょう。
そう思えば、なかなか不自由で窮屈な若者でした。
人は自由になりゆく存在だ、という言葉がありますが、
その頃より、ちょっとは自由になれたかな(^^)。
思考も、感情も、意志も、すべては
そのままでいったん受け取ること。
受け取る前に消したりねじ曲げたりしないこと。
大人的に、バカっぽく見えるのが不便なこともあるから、
外に向けては隠す技を持ってる方が生きやすいだろうけど、
自分の中では、自分の中に生まれたものをちゃんと受け取ること。
その上でどうするか、自分はどうしたいのかを、
自分の心と自分の精神とで相談して決め、
自分の意志を生み育てることで、自分を動かす。
まさに、自由への道ですね。
こういうこと考えてると、広々した気持ちになります。
情を持てば、その情が快にもなる。
不快な情もあるけど、情に振り回されるのではなく、
不快な気持ちを、精神の力でしのいだ時は、
「自分って結構やるな~」という快に変わる。
それは、うぬぼれじゃなくて、
「成長したな~」と、しみじみ思うたぐいの快。
気持ちの快じゃなくて、精神の快だけど、
だからって、快の意味は劣るわけじゃない。
ある感情が幻想と結びついているからと言って、
情を生きる快から引き去るのは、
生きるの値を、量じゃなくて質に関わらせ、
快の原因が値打ちのあるものかどうかによって
快の値を決めようとしている。
でも、生きる価値があるかどうかを
快・不快の量から決めようとするなら、
ちゃんと感情の快・不快の量ではかるべきだ。
私が快と不快のどちらが多いかを比べて、
どちらが多いかと見ようとするなら、
実際に自分が感じた感情の快・不快の量で、
生きる値を見るのが筋だろう。
快・不快の原因がどうあれ、
それが幻想であれ関係ない。
幻想による快に、
理性で納得できる快より高い値打ちを付けるなら、
その人は、生きる値打ちを
快・不快とは別のもので決めていることになる。
※
気持ちの不快を精神の力でしのぐ。
これは、その気持ちをごまかしてガマンすることとは根本的に違います。
ちまたのポジティブシンキングとも、まったく違います。
快や不快を感じた気持ちを、そのまま受け止めて、
しかし、それだけに自分を躍らせることなく、
自分がどうしたいのかを精神の力で加味して動く。
自分の手綱を、気持ちだけに持たせず、
気持ちも体も精神も含めた、自分の全体で持つ。
反射的に「無理!」って思って避けるだけじゃなくて、
考えてみて、受け入れようと考えたなら受け入れたらいい。
そういう感じを「気持ちを精神の力でしのぐ」って
表現しているのだと思います。
逆に、精神だけの力に手綱を握らせたって失敗します。
「やだな」と思った時に、その気持ちを黙らせて、
「受け止めるべき」と無理することがありませんか?
私は、よくあります。
話をしていると頭痛がしたり、気持ちが真黒にベトついたり…。
体も心もSOSをいっぱい発しているのに、
「精神に手綱を持たせよう」と思って、
精神だけの言うことを聞いて、
もうちょっと頑張れる、頑張ろう、と付き合い続ける。
そして、深みにはまって玉砕したことも。
精神の言うことを聞いて受け入れてみて、
体や心がどうしても無理だったら、それも受け止めてあげたい。
自分はカンペキじゃないんだから、そんな時があるのは当然。
いい教訓になっています。
ただ、「やだな」と思うままに避けてもいいけど、
いったん精神の力が「理解したい」と言うなら、
向き合ってみることもできます。
気持ちを精神の力でしのぐ、オトナの力です。
向き合えば、理解し合えることの方が多いですよね。
そういう時の喜びはひとしおです。
それから、快・不快は、その感情を引き起こす対象によって
レベルが変わるのか、という話。
野球の試合に出るのと、
テレビゲームでピコピコとプレイするの。
前者は実際で、後者は幻想、だとして。
バーチャルのゲームで勝つ喜びは、
実際にプレイする喜びより、低いのかどうか。
これが論点。
個人的には、低いと思います。
バーチャルなら何度でもやり直しできるし、
指先ひとつで選手を動かせます。
実際に動くなら、素振りして手にマメを作って、
坂道ダッシュして体力をつけて、
仲間のかけてくれる言葉で緊張をほぐして…。
喜びだって、落ち込みだって、全然違います。
じゃあ、将棋やオセロは?
AI知能搭載(?)のコンピュータ相手に、
名人と呼ばれる人が将棋を指します。
知恵を振り絞って、やっと勝ったとします。
めっちゃくちゃ嬉しいんじゃないだろうか。
人を相手に対局するのと同じように。
って、私にはわかんない。
それが名人にとってバーチャルな勝負なのかどうかすら。
人 VS コンピュータ、という象徴を背負っての対局、
これは、真剣勝負だろうな。
自分が真剣になればなるほど、
快も不快も大きい気がする。
ひまつぶしでやってるゲームなんかでは、
快も不快もそれほど大きくはならないだろうし。
つまり、快・不快の質は、
現実かバーチャルかということではなく、
自分の相手との関わり方で決まる。のか。
だから、他人が「その快は質が高い」だの「低い」だの、
幻想だの本物だの言うことは意味がない。
感情はそのまま認めてあげたらいい。
ゲームであろうと、快は快。
草木染めは高い快で、染料で染めるのは低い快、
なんてこともないし、
ピカソのクレヨン画は高い快で幼児のは低い快、
なんてこともない。
映画は高い快で、テレビは低い快、
なんてこともないのです。
どっちも、値は違うだろうけど、
自分が「快」と感じるなら「快」なのです。
世間評価と「私が生きる」快・不快は連動していません。
他人の評価や、世間の相場ではなく、
自分が「おもしろい」と思うか、「くだらない」と思うか。
そこは、自分で自由に感じるままに受け止めて、
「あ、私はこういうのが好きなんだな」って
思えたらいいと思います。
昔、美術館で友人が
ピカソやゴッホやゴーギャンなどに見向きもせずに
無名の人の絵にまっすぐ向かって、
「うわっ、私こういうの好き!」って貼り付いたのを
「カッコいいな~」と感じたのを思い出します。
私はと言えば、
「印象派って、どういう特徴があるんだろう」って
アタマから理解しようとしてました。
んで、自由なその子に解説したりして。
ああ、若気の至り。
見る目の自信のなさを、知識で補っていたのでしょう。
そう思えば、なかなか不自由で窮屈な若者でした。
人は自由になりゆく存在だ、という言葉がありますが、
その頃より、ちょっとは自由になれたかな(^^)。
思考も、感情も、意志も、すべては
そのままでいったん受け取ること。
受け取る前に消したりねじ曲げたりしないこと。
大人的に、バカっぽく見えるのが不便なこともあるから、
外に向けては隠す技を持ってる方が生きやすいだろうけど、
自分の中では、自分の中に生まれたものをちゃんと受け取ること。
その上でどうするか、自分はどうしたいのかを、
自分の心と自分の精神とで相談して決め、
自分の意志を生み育てることで、自分を動かす。
まさに、自由への道ですね。
こういうこと考えてると、広々した気持ちになります。
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