『自由の哲学』を読む ~日々の暮らしから~

日々の「?」から始めて一歩ずつ
自分で見て考えて、行動していきたい。
私の自由が人の自由にもつながりますように。

■自由の哲学13章19段落

2015年12月29日 | 『自由の哲学』
それに、どうして情が閉め出されなければならないのか。
情を持てば、その情が快にもなる。
不快な情もあるけど、情に振り回されるのではなく、
不快な気持ちを、精神の力でしのいだ時は、
「自分って結構やるな~」という快に変わる。

それは、うぬぼれじゃなくて、
「成長したな~」と、しみじみ思うたぐいの快。
気持ちの快じゃなくて、精神の快だけど、
だからって、快の意味は劣るわけじゃない。

ある感情が幻想と結びついているからと言って、
情を生きる快から引き去るのは、
生きるの値を、量じゃなくて質に関わらせ、
快の原因が値打ちのあるものかどうかによって
快の値を決めようとしている。

でも、生きる価値があるかどうかを
快・不快の量から決めようとするなら、
ちゃんと感情の快・不快の量ではかるべきだ。

私が快と不快のどちらが多いかを比べて、
どちらが多いかと見ようとするなら、
実際に自分が感じた感情の快・不快の量で、
生きる値を見るのが筋だろう。

快・不快の原因がどうあれ、
それが幻想であれ関係ない。

幻想による快に、
理性で納得できる快より高い値打ちを付けるなら、
その人は、生きる値打ちを
快・不快とは別のもので決めていることになる。


気持ちの不快を精神の力でしのぐ。
これは、その気持ちをごまかしてガマンすることとは根本的に違います。
ちまたのポジティブシンキングとも、まったく違います。

快や不快を感じた気持ちを、そのまま受け止めて、
しかし、それだけに自分を躍らせることなく、
自分がどうしたいのかを精神の力で加味して動く。
自分の手綱を、気持ちだけに持たせず、
気持ちも体も精神も含めた、自分の全体で持つ。

反射的に「無理!」って思って避けるだけじゃなくて、
考えてみて、受け入れようと考えたなら受け入れたらいい。
そういう感じを「気持ちを精神の力でしのぐ」って
表現しているのだと思います。

逆に、精神だけの力に手綱を握らせたって失敗します。
「やだな」と思った時に、その気持ちを黙らせて、
「受け止めるべき」と無理することがありませんか?
私は、よくあります。

話をしていると頭痛がしたり、気持ちが真黒にベトついたり…。
体も心もSOSをいっぱい発しているのに、
「精神に手綱を持たせよう」と思って、
精神だけの言うことを聞いて、
もうちょっと頑張れる、頑張ろう、と付き合い続ける。

そして、深みにはまって玉砕したことも。
精神の言うことを聞いて受け入れてみて、
体や心がどうしても無理だったら、それも受け止めてあげたい。
自分はカンペキじゃないんだから、そんな時があるのは当然。
いい教訓になっています。

ただ、「やだな」と思うままに避けてもいいけど、
いったん精神の力が「理解したい」と言うなら、
向き合ってみることもできます。
気持ちを精神の力でしのぐ、オトナの力です。
向き合えば、理解し合えることの方が多いですよね。
そういう時の喜びはひとしおです。


それから、快・不快は、その感情を引き起こす対象によって
レベルが変わるのか、という話。

野球の試合に出るのと、
テレビゲームでピコピコとプレイするの。
前者は実際で、後者は幻想、だとして。

バーチャルのゲームで勝つ喜びは、
実際にプレイする喜びより、低いのかどうか。
これが論点。

個人的には、低いと思います。
バーチャルなら何度でもやり直しできるし、
指先ひとつで選手を動かせます。

実際に動くなら、素振りして手にマメを作って、
坂道ダッシュして体力をつけて、
仲間のかけてくれる言葉で緊張をほぐして…。
喜びだって、落ち込みだって、全然違います。

じゃあ、将棋やオセロは?
AI知能搭載(?)のコンピュータ相手に、
名人と呼ばれる人が将棋を指します。
知恵を振り絞って、やっと勝ったとします。

めっちゃくちゃ嬉しいんじゃないだろうか。
人を相手に対局するのと同じように。
って、私にはわかんない。
それが名人にとってバーチャルな勝負なのかどうかすら。
人 VS コンピュータ、という象徴を背負っての対局、
これは、真剣勝負だろうな。

自分が真剣になればなるほど、
快も不快も大きい気がする。
ひまつぶしでやってるゲームなんかでは、
快も不快もそれほど大きくはならないだろうし。

つまり、快・不快の質は、
現実かバーチャルかということではなく、
自分の相手との関わり方で決まる。のか。

だから、他人が「その快は質が高い」だの「低い」だの、
幻想だの本物だの言うことは意味がない。

感情はそのまま認めてあげたらいい。
ゲームであろうと、快は快。

草木染めは高い快で、染料で染めるのは低い快、
なんてこともないし、
ピカソのクレヨン画は高い快で幼児のは低い快、
なんてこともない。
映画は高い快で、テレビは低い快、
なんてこともないのです。

どっちも、値は違うだろうけど、
自分が「快」と感じるなら「快」なのです。
世間評価と「私が生きる」快・不快は連動していません。
他人の評価や、世間の相場ではなく、
自分が「おもしろい」と思うか、「くだらない」と思うか。

そこは、自分で自由に感じるままに受け止めて、
「あ、私はこういうのが好きなんだな」って
思えたらいいと思います。

昔、美術館で友人が
ピカソやゴッホやゴーギャンなどに見向きもせずに
無名の人の絵にまっすぐ向かって、
「うわっ、私こういうの好き!」って貼り付いたのを
「カッコいいな~」と感じたのを思い出します。

私はと言えば、
「印象派って、どういう特徴があるんだろう」って
アタマから理解しようとしてました。
んで、自由なその子に解説したりして。

ああ、若気の至り。
見る目の自信のなさを、知識で補っていたのでしょう。
そう思えば、なかなか不自由で窮屈な若者でした。
人は自由になりゆく存在だ、という言葉がありますが、
その頃より、ちょっとは自由になれたかな(^^)。

思考も、感情も、意志も、すべては
そのままでいったん受け取ること。
受け取る前に消したりねじ曲げたりしないこと。

大人的に、バカっぽく見えるのが不便なこともあるから、
外に向けては隠す技を持ってる方が生きやすいだろうけど、
自分の中では、自分の中に生まれたものをちゃんと受け取ること。

その上でどうするか、自分はどうしたいのかを、
自分の心と自分の精神とで相談して決め、
自分の意志を生み育てることで、自分を動かす。

まさに、自由への道ですね。
こういうこと考えてると、広々した気持ちになります。

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