植物を見ていると、
人間と同じだな、と思うことがあります。
子どもが植物について学ぶ時は、
植物を植物を大地から切り離し、分解して、
被子植物だの裸子植物だの分類しています。
その状態では、植物はすでに死んでしまっています。
分類できることは、私にはあまり関係のない知識です。
自分と同じように生きている植物を知りたい。
そう思うなら、
大地の上で生きた状態で観察することが必要です。
人間を知りたいと思う時と同じです。
性格だの体格だの職業だの成績だの年収だの…、
その人の一部を切り出して理解しても、
その人のその時の一部しか知る事ができません。
植物が芽吹き、花咲き、実り、養分になるように、
人間も、一瞬たりとも同じ所にとどまっていません。
常に変化し続けているのですから。
その変化の中で、理解していく事が大切なのだと思います。
だから、10年つきあっても20年一緒にいても、
「その人のことがわかる」なんて決して言えなくて、
「近づいていく」ことしかできないのでしょう。
神戸シュタイナーハウスで植物観察をした後、
植物に関する言葉をあれこれ味わって、
そんなことを考えました。
植物について学びながら人間について理解していく。
その視点を持つことで、
生きとし生ける者たちと一緒に生きている感覚になり、
健やかな安心感に包まれました。
その時に味わった言葉や、森の中での活動をnoteにまとめました。
よろしければご覧ください。
そういう意味では人間は生態系にとってただの撹乱者に過ぎないのではないでしょうか?
植物が人間と同じだなんて・・・
今回、私が森の中で植物を見ていて感じたのは「人にも季節によってふさわしい成長過程がある」ということでした。
人も植物も、春(20歳過ぎまで?)は光やぬくもりを受けてぐんぐん育ち、夏(40代半ばまで?)は自分の花を咲かせることに勝負をかける。秋(70前くらい?)には自分がキレイと言われるよりも、実(人に何を残すか)の方が大切になってきて、その後は、樹から葉が落ちていくように人も肉体から卒業して養分(気持ちの支え)になっていく。そんな自然なあり方ができたら幸せだな、と思います。
残せるものに意識が向くわけですね。
差し支えなければ、オキツさんにとって残せるに値するものとは何なのか知りたいですね。
何だか興味が湧きますね。
教えて頂きたいものですね。