昨日、大人のふりってラクしてたなぁと感じて、
「自分の感情や考えを表現していきたい」と考えていました。
今日はその続き。
そういうのをまっすぐ表現する人として、まず浮かぶのは、
時々ココにも出てくる学生時代の友達。
彼女の場合、
別にまっすぐ表現しようと思っているわけじゃなくて、
やたら素直なだけ、という気もしますが。
感情を出す前に理性でチェックし直すのが下手で、
素直に笑ったり怒ったりするためか、
時々支離滅裂だし、大人には見えません。
ただ、その子には友人が多い(^^)。
どんな人とでもわかりあえると一途に信じて、
人を信じすぎて、踏み込まなくていい所にも踏み込んで、
わかりあえないだけで、傷ついて。
人の評価はアンタ本体の値打ちと関係ないんやで~。
わかってもらえなかった落ち込むけど、
自分のことを全員がわかってくれるわけないし(自分にだってわからんわ)、
分かり合えないのは、
かみ合ってないだけとか、立場が違うだけの場合もあるやんか~。
何より、自分で自分の値打ちを認めてあげたらいいねんで~~~。
同じ時間を過ごしても、
私にとって、いつまでも「顔見知り」のままの人が、
その子のことを大切に思って深く関わってくれたりします。
だって近くにいたら放っておけないもの!
うらやましい!
誰とでもハダカでつきあうなんて、しんどいわ。
だから、友達少ないねんな~きっと。
とかゆーてみるのも面白い展開になりそうだけど、
裸族を目指しているわけではないので(^^;)。
大人の対応でやり過ごせない不器用さは、
明らかに友達が増えるみたいだけど、本人は大変で、
いろんな人の感情の奥深くに果敢に切り込んだ挙句、
矢継ぎ早に繰り出した矢で返り討ちにされて
ズタボロになったりしてます。ああ…。
学生時代、偶然その子と隣になったのも、
私の母が正直すぎるくらい素直なのも、
尊敬する先生が突発的に怒りを表したのも、
「真剣に生きよ」っていう覚悟を
私に伝える必要があったからだと思えてきた!!
大人ぶって穏やかにやり過ごすだけではたどり着けない場所。
何か、それぞれの「自分だけの道」を歩くために必要な姿勢。
人生が半分終わった頃に、やっと熱を持つ大切さに気づきました。
言葉ではわかってたけど、
言葉を知ってるだけじゃなくて、
行動としてあらわせるのか、私?
ハードル高いけど、少しずつでも!
「人としての存在価値を高めるために使わないなら、
(=自分を成長させるために役立たないなら)
知識なんかどんなにたくさん持ってても意味がない」。
ルドルフ・シュタイナー
自由の哲学の第一章より
このテーマ、昨日も考えたけど、
明日も続く予感。
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