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大人になってから、
もう一度ピアノを習っている。
今で3年目くらいかな?
憧れていた曲が弾けるのは
達成感があって嬉しい。
中秋の名月の時に
ドビュッシーの月の光なんか弾いた日にゃ、
めっちゃ気持ちいい。
だけど、ホントにやりたいことは、
もっと美しい音色を出すこと。
譜面通りには弾けるし、
自分なりの「音楽的」な表現もしてる。
だけど、今一歩、物足りないのは、
自分の望む美しい音が出せていないから。
特に、繊細で粒立つ感じで弾きたいパッセージや、
最後に消えるような天に昇っていく極々小さな音。
を、がちゃがちゃした音でしか弾けない悲しみ。
それが、思い通りに弾けたら、どんなに美しいだろう。
「この人(曲)の本来の実力を発揮させてあげたいのに!」
って、ピアノの先生に言ってたら、手首の使い方とか、
関節の動かし方とか、教えてくださるんだけどね。
「こうですか? こうですか?」っていう私に、
「一回コツを掴んだら出来るんですけどね~」と、
残念がってくださる。
「あ、今の感じ! 今いい音出てました!」って、
励ましてもくださる。
「今、出来ましたよね!!
我ながらいい感じで弾けました!」
って再現しようとしたら、また出来なくなっている。
大人になって、慣れた動きを変えるのは、
なかなか難しいのよ。お箸の持ち方ひとつでも。
おもしろいな~。
いや、自分が出来ないことじゃなくて、
偉大なる芸術のくせに、物理に縛られてるのが。
芸術は、物理から自由ではありえないのか?
精神の世界、というか脳内では美しく鳴らせるから、
芸術は物理から自由だ。
現実世界では、腕の使い方はもちろん、
熟練度にもピアノの性質やホールにも影響される。
つまり物理に縛られている。
脳内で自由に鳴らす音楽は、
誰とも共有できないけど、
現実世界の音楽は、物理に縛られてようが何しようが
聞く人に届けることができるし、受け取ることができる。
やっぱし、生きてる間は、
カラダ使わないとな~。
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