故郷白子浦を出船してから大暴風雨に遭遇し、舵、帆柱を失って漂流、
飲料水が尽きて雨水を貯め、辛うじて渇きをまぬがれた。
その間に水子一人が死亡し、辛うじてロシア領アミシャッカ島に漂着。
この島に出張していた商人の手代に保護されたが、
風土と食物がなじまぬため七名がつぎつぎに息絶えた。
その後、、カムチャッカに移されたが、そこでも三名が病死し、オホーツク、ヤクーツクをへて、
イルクーツクに送られた。
その旅の途中、想像を絶した厳しい寒気で庄蔵が左足を凍傷におかされて手術で切断され、
光太夫がキリロとともにイルクーツクからペテルブルクに(女帝に嘆願する為に)出発する直前、さらに水子一人が死亡した。
「日本ヲ出マシタ時ハ十七ニンデシタ。シカシ、今デハ私ヲフクメテ生キテイルノハ五ニンデス」
これは、ロシアのエカテりナ女帝に嘆願した時、これまでの経過を話すようにと言われ、光太夫が話した部分です。
そして、ついに日本への帰国を許されます。
しかし、生き残った5人のうち2人は、キリスト教信者になってしまった為、鎖国中の日本に戻ることができず、
帰国できたのは3人のみ、漂流後、9年半後の事でした。
幕府は、ロシアが進出してきた時に、ロシア語とロシアの情勢に詳しい光太夫を手元に置きたかったため、
故郷には帰らせず、江戸で幕府の監視下で生活することを命じます。
江戸小石川の薬草園に家ををもらって生涯をそこで暮らし、78歳で亡くなりました。
アメリカ彦蔵の話もすごいけれど、光太夫の漂流記も面白いと言っては悪いのだけれど、
息もつかせずという感じで読みきりました。
おろしや国酔夢譚の中で、この場面をよく覚えています。
帰国を許されて、感極まり、突っ伏して泣き噎んでいた
緒方健を...。
感情が入りすぎてしまって本当に泣いていたと。