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野宮

2020-05-08 12:01:56 | 詞章
『野宮』 Bingにて 野宮 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。
※[]は、ここでの読みがな、その他の補足。

【旅僧の登場】
ワキ「これは諸国一見の僧にて候、
  われこのほどは都に候ひて、
  洛陽(らくよう)の名所
  旧跡(きうせき)残りなく
  一見つかまつりて候、
  また秋も末になり候へば、
  嵯峨野の方(かた)ゆかしく
  候ふあひだ、
  立ち越え一見せばやと思ひ候、
  これなる森を人に尋ねて候へば、
  野の宮の旧跡とかや申し候ふほどに、
  逆縁(ぎゃくえん)ながら
  一見せばやと思ひ候
ワキ:われこの森に来て見れば、
  黒木(くろぎ)の鳥居
  小柴垣(こしばがき)、
  昔に変はらぬありさまなり、
  こはそも何と言ひたることやらん、
  よしよしかかる時節に参り会ひて、
  拝み申すぞありがたき
ワキ:伊勢の神垣(かみがき)隔てなく、
  法(のり)の教への道直(すぐ)に、
  ここに尋ねて宮所(みやどころ)、
  心も澄める夕べかな、
  心も澄める夕べかな

【里女の登場】
シテ:花に馴れ来(こ)し野の宮の、
  花に馴れ来し野の宮の、
  飽(あき)よりのちは
  いかならん
シテ:をりしもあれ
  ものの淋しき秋暮れて、
  なほしほり行く袖の露、
  身を砕くなる夕(いう)まぐれ、
  心の色はおのづから、
  千草(ちぐさ)の花に移ろひて、
  衰ふる身のならひかな
シテ:人こそ知らね今日(きょう)ごとに、
  昔の跡に立ち帰り
シテ:野の宮の、
  森の木枯らし秋更けて、
  森の木枯らし秋更けて、
  身にしむ色の消えかへり、
  思へばいにしへを、
  何(なに)と忍ぶの草衣(くさごろも)、
  来てしもあらぬ仮の世に、
  行き帰るこそ恨みなれ、
  行き帰るこそ恨みなれ

【里女、旅僧の応対】
ワキ「われこの森の蔭に居て
  いにしへを思ひ、
  心を澄ます折節、
  いとなまめける女性(にょしょう)
  一人(いちにん)忽然(こつぜん)と
  来たりたまふは、
  いかなる人にてましますぞ
シテ「いかなる者ぞと問はせたまふ、
  そなたをこそ問ひ参らすべけれ、
  これはいにしへ斎宮(さいくう)に
  立たせたまひし人の、
  仮に移ります野の宮なり、
  しかれどもそののちは、
  このこと絶えぬれども、
  長月(ながづき)七日(なぬか)の
  今日はまた、
  昔を思ふ年々(としどし)に
  :人こそ知らね宮所(みやどころ)を清め、
  ご神事(じんじ)をなすところに、
  行方も知らぬおんことなるが、
  来たりたまふは憚(はばか)りあり、
  とくとく帰りたまへとよ
ワキ「いやいやこれは苦しからぬ、
  身の行末も定めなき、
  世を捨て人(びと)の数なるべし、
  さてさてここは
  古(ふ)りにし跡を今日ごとに、
  昔を思ひたまふ
  :謂はれはいかなることやらん
シテ「光源氏この所に詣でたまひしは、
  長月(ながづき)七日の日
  今日に当たれり、
  その時いささか持ちたまひし
  榊(さかき)の枝を、
  斎垣(いがき)の内に
  さし置きたまへば、
  御息所(みやすどころ)とりあへず
  :神垣(かみがき)はしるしの
  杉もなきものを
  「いかにまがへて折れる榊ぞと、
  詠みたまひしも今日ぞかし
ワキ:げに面白き言(こと)の葉(は)の、
  いま持ちたまふ榊の枝も、
  昔に変はらぬ色よのう
シテ「昔に変はらぬ色ぞとは、
  榊のみこそ常磐(ときわ)の蔭の
ワキ:森の下道(したみち)秋暮れて
シテ:紅葉かつ散り
ワキ:浅茅(あさじ)が原も
地:末枯(うらが)れの、
  草葉(くさば)に荒るる野の宮の、
  草葉に荒るる野の宮の、
  跡懐かしきここにしも、
  その長月の七日の日も、
  今日にめぐり来にけり、
  ものはかなしや小柴垣、
  いとかりそめのおん住まひ、
  いまも火焼屋(ひたきや)のかすかなる、
  光はわが思ひ内(うち)にある、
  色や外(ほか)に見えつらん、
  あら淋(さみ)し宮所(みやどころ)、
  あら淋し宮所

【里女の物語】
ワキ「なほなほ御息所の謂はれ
  ねんごろにおん物語り候へ
地:そもそもこの御息所と申すは、
  桐壺(きりつぼ)の帝(みかど)の
  おん弟(のとと)、
  前坊(せんぼう)と申し
  たてまつりしが、
  時めく花の色香まで、
  妹背(いもせ)の心浅からざりしに
シテ:会者(えしゃ)定離(じょうり)の
  ならひもとよりも
地:驚くべしや夢の世と、
  ほどなく遅れたまひけり
シテ:さてしもあらぬ身の露の
地:光源氏のわりなくも、
  忍び忍びに行き通ふ
シテ:心の末のなどやらん
地:また絶(た)え絶(だ)えの仲なりしに
地:つらきものには、
  さすがに思ひ果てたまはず、
  はるけき野の宮に、
  分け入りたまふおん心、
  いとものあはれなりけりや、
  秋の花みな衰へて、
  虫の声も枯(か)れ枯(が)れに、
  松吹く風の響きまでも、
  淋しき道すがら、
  秋の悲しみも果てなし、
  かくて君ここに、
  詣でさせたまひつつ、
  情けをかけてさまざまの、
  言葉の露もいろいろの、
  おん心のうちぞあはれなる
シテ:そののち桂のおん祓(はら)ひ
地:白(しら)木綿(いう)かけて川波の、
  身は浮き草の寄る辺なき、
  心の水に誘はれて、
  行方(ゆくえ)も鈴鹿川(すずかがわ)、
  八十瀬(やそせ)の波に濡れ濡れず、
  伊勢まで誰(たれ)か思はんの、
  言(こと)の葉(は)は添ひ行くことも、
  ためしなきものを親と子の、
  多気(たけ)の都路に赴きし、
  心こそ、恨みなりけれ

【里女の中入】
地:げにや謂はれを聞くからに、
  常人(ただびと)ならぬおん気色(けしき)、
  その名を名乗りたまへや
シテ:名乗りても、
  かひなき身とて羽束師(はずかし)の、
  洩りてやよそに知られまし、
  よしさらばその名も、
  亡き身ぞと弔(と)はせたまへや
地:亡き身と聞けば不思議やな、
  さてはこの世をはかなくも
シテ:去りて久しき跡の名の
地:御息所は
シテ:われなりと
地:夕暮れの秋の風、
  森の木(こ)の間の
  夕(いう)月夜(づくよ)、
  影かすかなる木(こ)の下の、
  黒木(くろぎ)の鳥居の
  二柱(ふたばしら)に、
  立ち隠れて失せにけり、
  跡立ち隠れ失せにけり

(間の段)【所の者の物語】
(所の者が現れ、御息所の故事を、僧に語る)

【僧の待受】
ワキ:片敷くや、
  森の木蔭の苔衣(こけごろも)、
  森の木蔭の苔衣、
  同じ色なる草莚(むしろ)、
  思ひを延べて夜もすがら、
  かのおん跡(なと)を弔(と)ふとかや、
  かのおん跡を弔ふとかや

【御息所の亡霊の登場】
シテ:野の宮の、
  秋の千草(ちぐさ)の花車、
  われも昔に、
  めぐり来にけり
ワキ:不思議やな月の光もかすかなる、
  車の音の近づく方(かた)を、
  見れば網代(あじろ)の下簾(したすだれ)、
  思ひかけざるありさまなり、
  いかさま疑ふところもなく、
  御息所にてましますか、
  さもあれいかなる車やらん
シテ「いかなる車と問はせたまへば、
  思ひ出でたりその昔
  :賀茂の祭の車争ひ、
  主(ぬし)は誰(たれ)とも白露の
ワキ:所狭(せ)きまで立て並ぶる
シテ:物見車のさまざまに、
  ことに時めく葵の上の
ワキ:おん車とて人を払ひ、
  立ち騒ぎたるその中に
シテ:身は小車(おぐるま)の遣(や)るかたも、
  なしと答へて立て置きたる
ワキ:車の前後に
シテ:ばっと寄りて
地:人々轅(ながえ)に取り付きつつ、
  ひとだまひの奥に押しやられて、
  物見車の力もなき、
  身のほどぞ思ひ知られたる、
  よしや思へばなにごとも、
  報ひの罪によも洩れじ、
  身はなほ牛の小車の、
  廻(めぐ)り廻り来ていつまでぞ、
  妄執(もうしう)を晴らしたまへや、
  妄執を晴らしたまへや

【御息所の舞】
シテ:昔を思ふ花の袖
地:月にと返す気色(けしき)かな

《序ノ舞》

シテ:野の宮の、月も昔や思ふらん
地:影淋(さみ)しくも、
  森の下露[したつゆ]、
  森の下露

【終曲】
シテ:身の置き所(どころ)も、
  あはれ昔の
地:庭のただずまひ
シテ:よそにぞ変はる
地:気色も仮なる
シテ:小柴垣
地:露うち払ひ、
  訪(と)はれしわれも、
  その人も、
  ただ夢の世と、
  古(ふ)り行く跡なるに、
  誰(たれ)松虫の音(ね)は、
  りんりんとして、
  風茫々(ぼうぼう)たる、
  野の宮の夜すがら、
  懐かしや

《破ノ舞》

地:ここはもとより、
  かたじけなくも、
  神風や伊勢の、
  内外(うちと)の鳥居に、
  出で入る姿は、
  生死(しょうじ)の道を、
  神は受けずや、
  思ふらんと、
  また車に、
  うち乗りて、
  火宅(かたく)の門(かど)をや、
  出でぬらん、
  火宅の門

※出典『能を読むⅢ』(本書は観世流を採用)


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