源平倶利伽羅古戦場跡を通る山道を700M程入ると、ため池の手前に「巴塚・葵塚」の案内看板が立っています。車を降り、鬱蒼と草木が茂る山道を少し分け入ると巴塚と葵塚の分岐を示す道標があり、さらに登ると巴塚・葵塚があります。巴と葵は木曽義仲に仕えた女武将です。巴は、幼いころから義仲と育ち、美人で優秀な武将であったと伝えられていますがその生涯は謎につつまれています。「平家物語」の「木曽最期」には義仲に「これよりとうとう何地(いづち)へも落ちゆけ。義仲は討死をせんずるなり。若し人手にかゝらずば、自害をせんずれば、義仲が最期の軍に、女を具したりなど云はれん事、口惜しかるべし」と再三諭され、落ち延びたと記述されています。
巴塚(碑文)
「巴は義仲に従ひ源平礪波山の戦の部将となる
晩年 尼となり越中に来たり九十一歳にて死す」
巴は礪波合戦で共に義仲に仕えた越中国福光城主石黒氏のもとに身を寄せたと伝えられています。臨終の際、「私が死んだら礪波山にある葵塚と並べて墓を作って下さい。」と頼んで息を引き取ったといわれています。
倶利伽羅合戦で1000騎を率いた女武将の塚は木漏れ日を浴び眩しく光り輝いていました。
葵塚(碑文)
「葵は壽永二年五月礪波山の戦ひに討死す
屍を此の地に埋め墳を築かしむ」
葵は、義仲に従えた女武将で「源平盛衰記」に礪波合戦で討ち死にしたとの記述があります。
巴塚からさらに70M奥まった場所にあります。
塚の背後には朽ち果てた老木。巴塚と同じように木漏れ日がさし込んでいるにもかかわらず、湿気を帯びてひんやりとしいます。ホトトギスのカン高い鳴き声があたりに響いていました。
「平家物語」は口承文学です。 平家滅亡から50年程後、盲目の琵琶僧によって広められたとされています。当時の社会を反映してか、仏教色のためか、平家物語に登場する女性は、「強弓精兵一人当千人の兵者」である勇敢な女武将巴でさえも(といっては失礼か。。。)「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」となっています。命をかけて共に戦ってきた義仲との別れ際、巴は「木曾殿に、最期の軍して見せ奉らん」と敵将の首をねじ切って捨て、鎧を捨てて東へ落ち延びたとされています。なににも媚びない潔さ。天に向かって真っすぐに伸びる木曽の大樹のような生命力。乱世を駆け抜けていった巴の生き方に憧れます。
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