いするぎ便り

歴史を求めて季節を感じて…
www.shokoren-toyama.or.jp/~oyabe/    

宮島峡の紅葉<2011 メルヘン小矢部 フォトコンテスト>

2011-10-28 | 旅行

宮島峡の紅葉をカメラに収めてきました!

 

   

一の滝

ゴーという滝の音が山に響ます  

天然記念物「おうけつ」についてはこちら→パワースポット&マイナスイオン<一の滝>
 

 

ニの滝 

夏の滝とはまた違った表情に  

夏のニの滝はこちら→ パワースポット&マイナスイオン<二の滝>

 

  

小撫川ロックフィルダム

澄んだ空気と秋晴れの空、山は色づき連なり、湖水は深く青い。爽快です!

過去ブログはこちら→小撫川ロックフィルダムと人工湖

 

 一の滝からニの滝さらに小撫川ダムと車で約5分余り。標高が高くなるにつれて山の木々が一層色づき、落ち葉が風に舞い、秋の深まりを感じます。 

 

<2011 メルヘン小矢部 フォトコンテスト>募集

  • テーマ        レンズが語る「見て来て体験メルヘンおやべ」の魅力
  • 応募締切日   平成23年11月11日(金)必着
  • 平成23年4月1日から平成23年10月31日までの間で小矢部市内で撮影したオリジナル写真とする。

    詳しくは小矢部市観光協会のHPをご覧ください   小矢部市観光協会HP

     

    この週末はカメラを片手にぜひ宮島峡にお越し下さい。

     


    「桜町 JOMON パーク」 リニューアルオープン

    2011-10-21 | 旅行

    「桜町 JOMON パーク」がリニューアルオープンしました。

    桜町遺跡は、8000年前から2300年前の縄文時代の遺跡です。遺跡が湿地帯にあったのと、秋の洪水によって瞬く間に埋もれたことから良好な保存状態のまま残りました。

    昭和63年(1988年)の発掘調査では高床建物の柱材が出土し、弥生時代より2000年も前に既に存在していたことが実証されました。(高床式建物=弥生時代の定説が覆されました!!) またその後の調査では、床の高さが地上から2Mもある大型の高床式建物の柱材もみつかり祭りや儀式を行った建物(祭殿)ではないかと考えられています。(高床式=倉庫の定説が覆されました!!)

     

    桜町遺跡の三種の神器(出土品)

    • コゴミ

    • コゴミの出土は国内初です。クルミやその他の種子が団子状に固まった土の塊の中から発見されました。発見された時はまだ緑色でしたが、空気に触れ、まるで浦島太郎が玉手箱を開けた時のように一瞬で黒くなったそうです。

    • 紅葉

    • 桜町遺跡が秋の洪水で埋もれたことの証拠となりました。

    • 朱塗り椀

    • 泥にまみれて出土した朱塗り椀を直後から写真撮影し、朱色から茶褐色となった一部始終を記録として残しました。

     

    プラスワン

    • 栗(約4000年前の栗)

    • DNA分析によって、管理して栽培していた栗であることが確かめられました。 (自然採集だけじゃない!!)

     

     施設紹介

      

     

    • 開館時間    午前9時~午後4時半(入場は午後4時まで)
    • 休館日      月曜日(祝日、振替休日にあたる翌日)及び12月1日~2月末日
    • 入館料      無料(縄文体験については実費)

     


    慈光院<火渡り法要>

    2011-10-17 | 旅行

     本日 10月17日、慈光院火渡り法要「紫燈大護摩法要」が行われました。

     読経の中、火がくべられた護摩壇に「添護摩」(願い事が書かれた木)が投げ込まれます。立ち上がる炎に思わず手を合わせます…

    やがて護摩壇の火は、敷き詰めた木炭(幅1メートル、長さ3メートル)に移され、平らにならされます。

    火の勢いがおさまってきたところで、僧侶に続いて信者の方々が、足を水で濡らし、次々に火の上を渡り始めます。なかには、ニ回三回と渡る方も。

    護摩壇の炎と皆さんの真摯な願いが、肌寒い境内を暖かくしたように思えました。 

      

     

    紫燈大護摩法要(火渡り行)について慈光院さんのホームページより抜粋させていただきます。

    「宗祖、弘法大師が仏法の真髄、密教の秘奥を唐より伝えて一千二百余年、この教えをとり入れた山岳の修験者が古来より行っていた火の禊としての荒行である。道場にたちこめる紫煙の中から立ちのぼってくる紅蓮の炎をそのまま本尊不動明王の力強い生命力と誓願力として感得し、我欲・我見に翻弄され汚された心身を真っ赤におこされた火勢の上に投げ出し、六根清浄の祈りを合掌にたくして、一心に渡火する時、すがすがしく美しい感応の相がある。」
    (慈光院ホームページ http://jikoin.sakura.ne.jpより)


    芭蕉が旅した倶利伽羅峠 <奥の細道 ―北陸路―>

    2011-10-13 | 旅行

     江戸時代の俳諧師、松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で東北から北陸を旅し、倶利伽羅峠を越えて金沢に入りました 芭蕉に同行していた弟子の曽良の「随行日記」によれば、 芭蕉が倶利伽羅峠を訪れたのは元禄2年(1689)7月15日、新暦の8月29日。「快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻金沢ニ着。…」とあります。

    埴生八幡とは、義仲が戦勝を祈願した埴生護国八幡宮のことです。埴生護国八幡宮については過去ブログをご覧ください。→ 埴生護国八幡宮 <義仲が戦勝祈願した大社> 

    「平家物語」に想い入れがある芭蕉は「奥の細道」の旅で、源平合戦ゆかりの史跡を巡り、いくつかの名句を残しています。特に義仲には強い共感を抱いていたようで、「(墓は)木曽殿の隣に」との遺言によって大阪で病死した芭蕉は弟子によって死の翌日、大津にある義仲寺に運ばれ義仲の墓の隣に埋葬されました。

    北陸路では金沢に急いだ芭蕉も、義仲が大勝を納めた合戦の舞台である倶利伽羅峠では義仲に想いを馳せていたことでしょう。

    倶利伽羅峠を横断する源平ライン沿いには芭蕉の句碑が二つ建っています

    「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」

    この句は後に訪れた越前の燧ヶ城で詠んだものですが、義仲の生涯を偲び詠んだとされます。

     

    「あかあかと 日は難面も あきの風」

    句を詠んだ場所も解釈も諸説ありますが、残暑厳しい北陸路で得た旅情を詠ったとされています。

     余談ですが、

    随行日記に「…未の中刻金沢ニ着。」とあります。
    『「加賀藩主参勤交代道程」によれば、高岡~金沢間は十里三十三丁である。途中に倶利伽羅峠もあるから、その日の未明に高岡を出立したとしても、未の刻(午後ニ時)の金沢到着は、大変な健脚である。』(「芭蕉・金沢に於ける十日間」 密田靖夫 より)

    これも芭蕉忍者説の一因になるのでしょうか? 

    倶利伽羅峠は源平ラインを走るドライブはもちろん、「旧北陸道」や「ふるさと歩道」があり、ハイキングも楽しめます→倶利伽羅県定公園パンフレット(小矢部市観光協会)

    倶利伽羅の紅葉シーズンはこれからが本番です!!


    勝興寺石動通坊<歴史に幕を閉じる古刹> 

    2011-10-07 | 日記

    勝興寺石動通坊は老朽化などで維持が困難となり今年に入り解体され現在は正門、蓮如上人像、釣鐘堂だけが残っています。

    「まことに諸行無常有為転変は世の常とは云え下剋上戦国争乱の巷に興亡を繰り返しながら 僧俗共に愛山護法一筋に波乱万丈の永い年月を経てきたのである。」(雲龍山勝興寺石動支坊略縁起より)

    勝興寺石動通坊の歴史は、苦難の歴史でもありました。

    始まりは、文明3年(1471年)、蓮如上人が土山(富山県南砺市福光町)に次男の蓮乗を置いて一寺を創建。その後一度移転し、兵火により焼失。永正16年(1519年)に小矢部市末友に移転し、安養寺城を建て勝興寺と改めました。勝興寺は北陸一向一揆の中心として「本願寺からは、北国の本山同格に待遇されていた。触下と称する与力寺が259ヵ寺更に8ヵ寺の子院が配下に直属し、以上の寺に関係ある多数の門信徒を掌握し、その勢力は大名にも匹敵するものを持っていた。」(「ふるさとガイドおやべ」 発行 小矢部市より)とされます。

    戦国時代の僧侶は私たちの僧侶のイメージとはかけ離れたものだったようですね。

    「天正9年(1581年)当時の住職 顕幸が家臣や門徒を率いて大阪石山合戦に参加したその留守中木舟城主石黒左近によって不意に攻略され、本堂伽藍は焼き払われたが、このあと天正12年(1584)、富山城主佐々成政は勝興寺勢を加護して、伏木古国府(富山県高岡市)の地を寄進し、ここに新しく再建された。」(「ふるさとガイドおやべ」 発行 小矢部市より)

    佐々成政が土地を寄進したのは、豊臣秀吉との争いに孤立し、勝興寺の門徒の力に望みを託したからといわれています。

    勝興寺移転から17年後の慶長3年(1598年)、砺波門徒からの願いにより掛所(本山の地方別院)が現在の場所に創建されました。その後、寛政2年(1790年)ごろに大火で焼失しましたが再建され石動通坊と称し、その後220年を経て今日に至りました。

    勝興寺にある釣鐘もまた、存続の危機に見舞われています。

    勝興寺にある梵鐘は、もとは一向宗の有力寺院であった願海寺にあったもので、寛永17年(1640年)に再興したときの釣鐘といわれています。5年間かけて鋳造され、玄妙な音色が響く富山城下一の名鐘とうたわれていましたが、明治初期に起こった廃仏毀釈運動や富山藩から突如発せられた「合寺令」(すべての寺院は一派一寺にあらため、家具・仏具をとりはらい、指定された場所に合寺することといった内容だったそうです。)を危惧し、「願海寺では伏木の勝興寺と合い計って、支坊の石動通坊に疎開保護することになった。夜陰に紛れて神通川を筏で下り、富山湾に出て小矢部川を逆上がって福町にあげられ現通坊に上納されたという。戦争中に一旦供出されたが由緒ある鐘として返還された。その折の「富山県石動町・勝興寺支坊供出」の文字がペンキで鏡面に残っている。」(おやべ市の歴史と文化再見:小矢部郷土史読本より )

     

    梵鐘の銘「無量寿経」の上にペンキで書かれた文字がはっきり読み取れます。戦争の暴力性や愚かさが感じ取られます。後方は蓮如上人像です。

     

    釣鐘と正門は伏木古国府の勝興寺に移され、蓮如上人像はいするぎに残るそうです。