勝興寺石動通坊は老朽化などで維持が困難となり今年に入り解体され現在は正門、蓮如上人像、釣鐘堂だけが残っています。
「まことに諸行無常有為転変は世の常とは云え下剋上戦国争乱の巷に興亡を繰り返しながら 僧俗共に愛山護法一筋に波乱万丈の永い年月を経てきたのである。」(雲龍山勝興寺石動支坊略縁起より)
勝興寺石動通坊の歴史は、苦難の歴史でもありました。
始まりは、文明3年(1471年)、蓮如上人が土山(富山県南砺市福光町)に次男の蓮乗を置いて一寺を創建。その後一度移転し、兵火により焼失。永正16年(1519年)に小矢部市末友に移転し、安養寺城を建て勝興寺と改めました。勝興寺は北陸一向一揆の中心として「本願寺からは、北国の本山同格に待遇されていた。触下と称する与力寺が259ヵ寺更に8ヵ寺の子院が配下に直属し、以上の寺に関係ある多数の門信徒を掌握し、その勢力は大名にも匹敵するものを持っていた。」(「ふるさとガイドおやべ」 発行 小矢部市より)とされます。
戦国時代の僧侶は私たちの僧侶のイメージとはかけ離れたものだったようですね。
「天正9年(1581年)当時の住職 顕幸が家臣や門徒を率いて大阪石山合戦に参加したその留守中木舟城主石黒左近によって不意に攻略され、本堂伽藍は焼き払われたが、このあと天正12年(1584)、富山城主佐々成政は勝興寺勢を加護して、伏木古国府(富山県高岡市)の地を寄進し、ここに新しく再建された。」(「ふるさとガイドおやべ」 発行 小矢部市より)
佐々成政が土地を寄進したのは、豊臣秀吉との争いに孤立し、勝興寺の門徒の力に望みを託したからといわれています。
勝興寺移転から17年後の慶長3年(1598年)、砺波門徒からの願いにより掛所(本山の地方別院)が現在の場所に創建されました。その後、寛政2年(1790年)ごろに大火で焼失しましたが再建され石動通坊と称し、その後220年を経て今日に至りました。
勝興寺にある釣鐘もまた、存続の危機に見舞われています。
勝興寺にある梵鐘は、もとは一向宗の有力寺院であった願海寺にあったもので、寛永17年(1640年)に再興したときの釣鐘といわれています。5年間かけて鋳造され、玄妙な音色が響く富山城下一の名鐘とうたわれていましたが、明治初期に起こった廃仏毀釈運動や富山藩から突如発せられた「合寺令」(すべての寺院は一派一寺にあらため、家具・仏具をとりはらい、指定された場所に合寺することといった内容だったそうです。)を危惧し、「願海寺では伏木の勝興寺と合い計って、支坊の石動通坊に疎開保護することになった。夜陰に紛れて神通川を筏で下り、富山湾に出て小矢部川を逆上がって福町にあげられ現通坊に上納されたという。戦争中に一旦供出されたが由緒ある鐘として返還された。その折の「富山県石動町・勝興寺支坊供出」の文字がペンキで鏡面に残っている。」(おやべ市の歴史と文化再見:小矢部郷土史読本より )
梵鐘の銘「無量寿経」の上にペンキで書かれた文字がはっきり読み取れます。戦争の暴力性や愚かさが感じ取られます。後方は蓮如上人像です。
釣鐘と正門は伏木古国府の勝興寺に移され、蓮如上人像はいするぎに残るそうです。