いするぎ便り

歴史を求めて季節を感じて…
www.shokoren-toyama.or.jp/~oyabe/    

歴史と文化が薫るまちづくり講座

2012-03-30 | 旅行

社団法人小矢部青年会議所3月度事業 (2012.3.19)

『歴史と文化が薫るまちづくり講座』

~義仲と埴生護国八幡宮~

講師  埴生 雅章 氏 (埴生護国八幡宮 宮司)

 

講演会を拝聴しました。

当日は「木曽義仲と埴生の八幡宮 ―歴史遺産を未来に活かす―」のサブタイトルで

幅広く様々な角度からのお話を伺いました。

宮司の史実や史跡に基づく推測は大変興味深く、新たな発見もありました。

 

埴生護国八幡宮は倶利伽羅合戦で木曽義仲が戦勝を祈願したことで有名な古社です。

養老2年(718)に宇佐八幡宮の分霊を勧請したのがはじまりとされ、その後、武田信玄、佐々成政などの戦国武将からの信仰が篤く

数々の寄進を受け、江戸時代に、加賀藩の祈願社となりました。

「護国」は凶作が続いたおり、加賀藩二代目藩主前田利長が埴生八幡宮に祈願し、この尊号を奉ったそうです。

宮司は講演の中で、なぜ、埴生護国八幡宮は加賀藩に手厚く保護されてきたのか?という問いの答えとして

「埴生護国八幡宮が交通の要所にあり、金沢城から鬼門に位置するからであろう。」と推測されました。

加賀藩は金沢城の鬼門に小松天満宮を造営しましたが埴生護国八幡宮もほぼ鬼門に位置しているそうです。

 

現在、国指定重要文化財となっている社殿(本殿、釣殿、拝殿・幣殿)は大正13年に一時、国宝に指定されたそうです。

桃山から江戸初期の様式を残した本殿は前田利長(加賀藩二代藩主・高岡の祖 )からの寄進であり、釣殿は同じく利長の病気平癒を祈

願して寄進されたのもです。拝殿・幣殿は正保三年(1646)に改築寄進されています。

宮司は、「丁度この年が利長の33回忌にあたり利常(加賀藩三代藩主)が寄進したものではないか」と話されました。

 

108段ある石段の途中で社殿を仰ぐと、まず目に入ってくるのが拝殿正面、入母屋の屋根に金色に輝く前田家の家紋、梅鉢です。

前田家は菅原道真の末裔として、道真が愛した梅を家紋に使っています。

ところが、本殿向拝の蟇股には沢瀉(おもだか)をモチーフにした装飾が施されているそうです。

沢瀉は別名「勝ち草」といわれ武将が好んで家紋に使ったそうです。

宮司は「前田家は表向きは 《菅原道真=文》 に重きを置いていますという態度をとりつつ 《沢瀉(おもだか)=

武》 にみられるように実は文武両道を目指していたのでは」と推測されました。

 

本殿(左奥)

屋根には梅鉢の神紋・蟇股には沢瀉の装飾があります

 

宮司は歴史を活かした公園のマネージメントに携わっていらっしゃるとのこと。

また、秋には埴生を舞台としたイベントも予定されているそうです。

 


本行寺<お彼岸会・星祭・水行>

2012-03-23 | 旅行

20日、春分の日に本行寺(日蓮宗)「お彼岸会・星祭・水行」が行われました。

 

春分とはいえ朝晩には雪がちらつく寒さです

水行は滝のイメージがありますが

日蓮宗では水槽から桶で水を汲んで行います 

 

 

信者の方々が見守る中

経文「水行肝文」を唱えながら何度も頭から冷水を浴びます 

 

 

お彼岸


 お彼岸には浄土を願い、先祖を偲び供養します。

「此岸」(しがん)と「彼岸(ひがん)」は、俗に言う川を挟んで「あの世」と「この世」の事をだそうです。

この世はつらいことばかりといいますが、彼岸はそれと対極の煩悩のない平安な浄土の世界です。 

お彼岸についてその由来はいくつかあり、彼岸法要については宗派によって様々な考え方があるようです。

信仰の違いはあっても、

生死について真摯に向き合い想いを巡らし

心静かに、ご先祖様のお墓に手を合わせたいものです。

 

星まつりはこちらをご覧下さい。観音寺(真言宗)<節分会>


おねはん

2012-03-16 | 日記

この冬、最後の雪景色をカメラに収めました。(3月13日撮影)

 

慈光院(真言宗)

秋には燃えるような紅葉に彩られていた山門。           

画像はこちら→慈光院の紅葉・日吉神社の大銀杏

季節が巡り、 雪にリセットされた命は芽吹きの時を待ちます。

 

 

寄り添い手をとる石仏が微笑ましいです。

 

 

春一番が吹いた後のまさかの積雪には驚きました。

今は雪も融けましたが、とたんに花粉症の症状がではじめました。待ち遠しかった春ですが・・・

 

 

 
常 楽 会(おねはん)

釈尊がクシナガラの沙羅双樹のもとで入滅された日にちなみ、報恩感謝のまことを捧げます。

陰暦二月十五日、釈尊入滅の日に、全国の各寺院で営まれる法会で、現在は三月十五日に行うところも多い。「仏生会」(ぶっしょうえ)「成道会」(じょうどうえ)とともに三大法会(三仏忌(さんぶつき))の一つとされ、古来、仏教各宗派で法要が営まれてきました。

この日、各寺院では「涅槃図」を掲げ、『遺教経(ゆいきょうぎょう)』(釈尊の最後の説法を記した経)などを読誦します。

慈光院ホームページより

 

 

涅槃団子


 北陸地方ではお釈迦様が入滅された日(亡くなられた日)にあわせて各お寺で常楽会(おねはん)・涅槃会(ねはんえ)を行い、涅槃団子を檀家・信者に配ります。

涅槃団子はおもに、ピンク・白・緑の一口大の団子で、お釈迦様の御舎利(お骨)を現したものだそうです。

御利益のある涅槃団子は無病息災、災難除けを願って焼いて食べたり、布や毛糸に包んでお守りにしたりします。

子供のランドセル、車の運転席のウィンカーレバー、財布、いろんな所に手作りのお守りが揺れています。

宗派は違ってもお守りに込めた願いは皆さん同じですね。

 

今年のお守りはイチゴです。

 


石動曳山祭

2012-03-09 | 旅行

4月29日石動曳山祭(小矢部市指定文化財)が開催されます。

町内から11本の花山車がでる、愛宕神社の春祭りです。

 山車は直経1メートル30~40センチの木製車輪の上にカマチと舞台が載っています。舞台にはコウランを設けて祭神を祀り、その後に鏡板のツイタテがあります。祭神のかたわらには約3メートルの木柱が立ち、頂上には鉾留の「ダシ」が取り付けられています。さらに木柱を中心として紙製の菊花をつけた30本あまりの竹が笠の形に吊り下がっている花傘を付けた花山車です。

今町の花山車

祭神の布袋様と、でんぐり返しをするからくり人形。

人形の頭部には「安政4年 高山茂平」の墨書があり、飛騨高山の布袋屋台と同じからくりの仕掛けがしてあります。

 

 

下新田町の花山車

鏡板の背面に施された見事な井波彫刻(彫刻師 十二代・番匠屋田村与八郎)

 

一斉巡行の様子

お囃子と掛け声に合わせ、通りをゆっくりと進む花山車。

寺の街に車輪の軋む音が響きます。

 

商工会前でのライトアップ

 

 祭の起源はわかっていませんが、花山車は宝暦年間(1751~63)から造られはじめたようです。 

そのころには高岡の御車山を模して城端・放生津などで山車がつくられ、安永3年(1774)高岡から高岡町奉行に「前田利長公(加賀藩2代藩主)から拝領した由緒ある御車山であるのにみだりに模倣することは僭越の沙汰であるから早急に禁止されたい」との訴えがあり一時中断していたこともあったようです。

 

今年はぜひ、「ヤマ」に来て下さい。(地元の人は曳山を「ヤマ」と呼びます。)

お待ちしています!

 

田んぼに降り積もっていた雪がやっと融けて、一面水を含んだ土になりました。

冬が終わったと感動します。

季節は巡って、必ず明日に繋がっていくんですね・・・

 

震災から間もなく一年。 一日も早い復興をお祈りします。


おやべの文芸<宗祇~芭蕉~十返舎一九>

2012-03-02 | 旅行

2. 中世の文学

 

中世になると大伴家持が万葉集で詠んだ枕詞を訪ねて歌人たちが越中を訪れるようになります。

連歌を代表する漂泊の歌人宗祇もその一人でした。

 

 

宗祇


 宗祇(1421~1502)は、当代最高の連歌師であった。芭蕉も「-西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶におけるその貫通するものは一つなり。」(『笈の小文』)と記しているが、宗祇は公武の間に尊ばれており、都の文化をあこがれる地方の豪族と、貧しさにあえぎながらも気位の高い都の公家との間を、巧みに立ちまわって文化の伝播に貢献している。

 宗祇が越後の上杉氏を訪れたのは九回にも及ぶといわれているが、そのたびごとに越中を通過し、この間には、蓮沼の遊佐の館で数回に及ぶ連句会を開いたと推定されている。

 <小矢部市「小矢部市史―市政四十年史編」 平成14年発行>

 

句集「老葉」

遊佐新右衛門許にて、長月ばかりに千句侍りしに

 もる月に  明るや関の  となみやま

 

 

句集「宇良葉」

遊佐加賀守館にて千句を

 戸さしせぬ  世には月見ぬ  里もなし

 久かたの  山いかばかり  空の月

 

蓮沼城


 室町時代に小矢部市蓮沼にあった平城。宗祇が句会を開いた蓮沼の遊佐の館とは蓮沼城の事です。

永正から大永(1504~1527)の頃、遊佐新右衛門慶親がその城主で、蓮沼はその城下町として、また越中と加賀を結ぶ交通の要衝地として豪華を極め、戸数も3000軒を数えた。<小矢部市 「ふるさとガイド 小矢部」 昭和59年発行>

しかし、戦国時代に入った天正13年(1585)、前田利家(初代加賀藩主)は豊臣秀吉との直接対決に向け佐々成政(富山城主)が蓮沼城に兵糧を集めたのを危惧し 、夜襲をかけて火を放ち城を城下町もろとも焼き払いました。

これにより蓮沼城は滅び、城下としての機能は翌年利家が築城した今石動城に移行し、北陸道も現在のルートに変更になりました。

 

やがて江戸時代に入り北陸道は、加賀藩主前田家の参勤交代の官道として賑わいをみせ、旅人、僧侶、商人など様々な人が行かうようになりました。 

 

松尾芭蕉


元禄2年(1689)には、孤高の俳人、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅で倶利伽羅峠を越え金沢に向かいました。

この時、源義仲を崇拝していた芭蕉は、義仲が倶利伽羅合戦(寿永2年 1183年)で戦勝を祈願した埴生護国八幡宮に参詣したことが曽良の「随行日記」に記されています。

こちらもご覧下さい→芭蕉が旅した倶利伽羅峠 <奥の細道 ―北陸路―>

 

 

各務支考


 

 芭蕉十哲の一人、各務支考は元禄14年(1701)に観音寺に3ヶ月滞在し、町内の俳人を指導しました。

正徳5年(1715)から享保5年(1720)には自ら死んだと言いふらし「阿難話」という追善集を出して姿を隠し、観音寺の中庭に獅子庵を建て滞在しました。

各務支考は獅子庵を拠点に城端・福野・井波まで出掛けて俳筵を開き、これが今石動での俳諧流行の一因となりました。

こちらもご覧下さい→観音寺<獅子庵~各務支考~ ・ 延命地蔵~立山信仰~>

芭蕉が参詣した埴生八幡宮には各務支考も時々参詣したと伝えられ、その時に詠んだ句碑があります。

 

白鳩の 木末に涼し 神の御意

 

 

十返舎一九


 

 滑稽本「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九が文政11年(1828)に著した「越中立山参詣紀行・方言修行金草鞋」には倶利伽羅峠の茶屋で詠んだ句が収められています。

 

爰元は 柴栗からの 茶屋なれや

はかり込むほど 往来の客 

 

ここは柴栗の名前にちなんだ柴くりからの茶店であるからであろうか、栗をはかるように、たくさんの往来の客で賑わっている

 

同じく「方言修行金草鞋」に

「高岡より石動まで川舟あり、陸道はたつの岡村などいふを過ぎて、石動の宿なり。この所も賑はしき町にて、ここにはかご多くいたってやすいし。

往来をかごに乗せても宿の名のゆする気遣ひなきそたのもし」

 

この歌は、高岡から立野、岡村を過ぎると石動の宿という賑やかな町である。ここにはたくさんのかご屋がいるけれど、宿の名はゆするぎであるが客から金銭をゆすることがないのは頼もしいことだという意であろうか。<小矢部市「石碑でつづる ふるさとの山河」 平成11年発行>

 

歌碑が城山公園にあります。