社団法人小矢部青年会議所3月度事業 (2012.3.19)
『歴史と文化が薫るまちづくり講座』
~義仲と埴生護国八幡宮~
講師 埴生 雅章 氏 (埴生護国八幡宮 宮司)
講演会を拝聴しました。
当日は「木曽義仲と埴生の八幡宮 ―歴史遺産を未来に活かす―」のサブタイトルで
幅広く様々な角度からのお話を伺いました。
宮司の史実や史跡に基づく推測は大変興味深く、新たな発見もありました。
埴生護国八幡宮は倶利伽羅合戦で木曽義仲が戦勝を祈願したことで有名な古社です。
養老2年(718)に宇佐八幡宮の分霊を勧請したのがはじまりとされ、その後、武田信玄、佐々成政などの戦国武将からの信仰が篤く
数々の寄進を受け、江戸時代に、加賀藩の祈願社となりました。
「護国」は凶作が続いたおり、加賀藩二代目藩主前田利長が埴生八幡宮に祈願し、この尊号を奉ったそうです。
宮司は講演の中で、なぜ、埴生護国八幡宮は加賀藩に手厚く保護されてきたのか?という問いの答えとして
「埴生護国八幡宮が交通の要所にあり、金沢城から鬼門に位置するからであろう。」と推測されました。
加賀藩は金沢城の鬼門に小松天満宮を造営しましたが埴生護国八幡宮もほぼ鬼門に位置しているそうです。
現在、国指定重要文化財となっている社殿(本殿、釣殿、拝殿・幣殿)は大正13年に一時、国宝に指定されたそうです。
桃山から江戸初期の様式を残した本殿は前田利長(加賀藩二代藩主・高岡の祖 )からの寄進であり、釣殿は同じく利長の病気平癒を祈
願して寄進されたのもです。拝殿・幣殿は正保三年(1646)に改築寄進されています。
宮司は、「丁度この年が利長の33回忌にあたり利常(加賀藩三代藩主)が寄進したものではないか」と話されました。
108段ある石段の途中で社殿を仰ぐと、まず目に入ってくるのが拝殿正面、入母屋の屋根に金色に輝く前田家の家紋、梅鉢です。
前田家は菅原道真の末裔として、道真が愛した梅を家紋に使っています。
ところが、本殿向拝の蟇股には沢瀉(おもだか)をモチーフにした装飾が施されているそうです。
沢瀉は別名「勝ち草」といわれ武将が好んで家紋に使ったそうです。
宮司は「前田家は表向きは 《菅原道真=文》 に重きを置いていますという態度をとりつつ 《沢瀉(おもだか)=
武》 にみられるように実は文武両道を目指していたのでは」と推測されました。
本殿(左奥)
屋根には梅鉢の神紋・蟇股には沢瀉の装飾があります
宮司は歴史を活かした公園のマネージメントに携わっていらっしゃるとのこと。
また、秋には埴生を舞台としたイベントも予定されているそうです。