前田秀継公夫妻・利秀公御廟を訪ねました。
右から前田秀継公・妻・利秀公の墓
前田秀継は初代加賀藩主前田利家の弟で、利秀は秀継の息子です。
利秀については、「利秀は若少の頃より、父秀継のとともに、戦陣の前線に出動し多くの功を残した。生まれつき剛胆であった利秀は、伯父利家、父秀継から鍛えられ、ますます知謀は群を抜き、又、戦いを通して人びとの苦しみも体を通して学びとり経世家としての素質を高めた。」(「小矢部市開発の祖 前田利秀公感謝祭40年のあゆみ」企画・発行 小矢部市 前田利秀公奉賛会)とあります。
1585年 天正13年9月 父、秀継は利家より木舟城四万石を拝領し城主となります。が、その年の11月29日午後11時頃、推定マグニチュード7.8の内陸型大地震「大正地震」が飛騨、北陸を襲い、木舟城は一瞬にして崩壊、夫妻は圧死。城下町も壊滅状態となりました。
→地震については過去ブログ永傳寺<遊歩百選に選ばれた石仏の寺>にも記載しました。ご覧下さい。
難を逃れた利秀は両親を高徳寺に葬り、直ちに、その処理にあたりましたが、甚大な損害に木舟での復興を断念。利家より今石動城四万石を封ぜられ、翌、天正14年に、今石動城に移りました。当時、弱冠19歳の城主に村人は獅子舞で歓迎したそうです。(現在の「獅子舞大競演会」の起こりだと言われています。)
そして、利秀は、領民の生活の安定を第一として町づくりを行いました。その内容は
①近村から寺院を移し、寺院には夫役、寺屋敷の地子米を免除する。
②鍛冶屋を集めて有事に備え、平素は農具や日用金具の生産にあたらせる。布を織らせて、商工業を発展させる。
③加賀藩要衝地として産業、経済、文化などの交流が盛んな城下町として発展させる。
といったものでした。民衆は、利秀の徳を慕い、生業に励み、今石動は城下町として繁栄し、やがて宿場町へと移り、今日の小矢部市に発展してきました。
1590年 天正18年、利秀は利家に従い、小田原の戦に参戦。戦国武将として抜群の功を納めます。
しかし、1593年 文禄2年、豊臣秀吉の朝鮮出兵に赴く際、病を発して今石動に戻り、12月19日、今石動城入城からわずか7年、26歳で死去しました。