いするぎ便り

歴史を求めて季節を感じて…
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石仏のまち石動<アルミ扉の地蔵堂・永傳寺―三十三観音石仏―>

2012-01-27 | 旅行

雪の降る小道でアルミ扉で守られたお地蔵様を見つけました。

地蔵堂の四方がアルミ扉で覆われています。

古くから町内の地蔵堂として祀られているもので、中には8体のお地蔵様がいらっしゃいます。  

 

小矢部には約1800体の石仏があり、その約80%が地蔵菩薩です。

「県境にいたる奥深い山地を含めて、小矢部市の面積は134平方キロであるから、1平方キロに13個体の石仏があることになる。したがって、小矢部のどこででも立ち止まって周辺を見渡せば、石仏がどこかにあるといってよい。また、人口約36,000(現在 約32,000)であるから、約20人(現在 18人)で石仏1個体を祀っていることになる。」 <「小矢部市の石仏について」 京田良志 『ふるさとの石仏 第十二集 総集編』小矢部市教育委員会・小矢部市婦人ボランティア育成講座 平成3年発行>

小矢部市婦人ボランティア育成講座ふるさとグループ(文化財愛護コース)の皆さんが市内に分布する石仏を昭和54年から12年間にわたり調査し、その結果を12集からなる「ふるさとの石仏」と題する報告書にまとめました。

報告書は石仏の形状(大きさ・尊別・印相・持物・姿勢)別に分類し、石仏にある刻字から制作年や作者を判定し由来を調査したもので、「何よりも、供養の心をもって歩かれたのが特色であり、石仏調査であるとともに、石仏巡礼でもあった」と記されています。

 

「地蔵堂の石仏は磨滅もなく手厚く祀られているが、道端で風化した石仏を拝む時、無力な自分が情けなかった。」

<「永伝寺・恵性庵の調査にあたって」岡田静子『ふるさとの石仏 第11集 寺院その二』小矢部市教育委員会・小矢部市婦人ボランティア育成講座 平成2年発行>

 

「一生に一度は訪ねてみたい百ヶ所」遊歩百選(主催:読売新聞 平成12年7月選定)に石動の寺と石仏が選ばれています。

 

参道に佇む三十三観音像、風情ある古刹と背後に広がる城山が雪に煙り、まるで水墨画のようです。

こちらもご覧下さい。→ 永傳寺<遊歩百選に選ばれた石仏の寺>

 

永傳寺の石仏の調査報告があります。

 

「永傳寺参道右側に花山法皇は番外として第二番より三十四体までが西国三十三所観音で三十五体目は不動明王でこちらも番外です。この三十五体は、大正初期に彫られ石工の名前もほぼ判明している。」

「造立主はいすれも幼い子に先立たれた両親の深い悲しみ、願い、又、亡き両親の供養にと子供達が造立した石仏など今回迄を通し幾世代経ても優しい笑顔のまま何も語っては下さらぬみ仏達の声なき声が私達の胸に迫ってくる感じがした。」

<「永伝寺・恵性庵の調査にあたって」岡田静子『ふるさとの石仏 第11集 寺院その二』小矢部市教育委員会・小矢部市婦人ボランティア育成講座 平成2年発行>

 


埴生護国八幡宮・松尾神社

2012-01-20 | 旅行

新年を迎え、埴生護国八幡宮松尾神社を訪れました。

埴生護国八幡宮は、木曽義仲が源平倶利伽羅合戦の戦勝を祈願したことで有名ですが       

こちらもご覧下さい→埴生護国八幡宮 <義仲が戦勝祈願した大社>

奈良時代養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請したのが始まりとされる古社で、天平時代には越中の国守であり万葉歌人である大伴家持が祈願したと伝えられています。

主神は八幡大神で、その他に神明宮・住吉社・出雲社・春日社・諏訪社・東照宮・天満宮などが合祀され合わせて21もの祭神が祀られている大社です。

 

埴生護国八幡宮の鳥居には地域の方々で作った新しいしめ縄が取り付けられ、鳥居横には「文化財防火訓練」を告知した看板が設置されていました。

参道を進むと、年末に埴生青年団員によって「お身ぬぐい」を施した「義仲像」が冬晴れの光に輝いていました。

石段を慎重に登っていくと、雪囲いに覆われた社殿が

 

 

今のところ、 例年に比べ積雪量は少ないですが、冬将軍は手強い相手です。 万全の準備が必要です!!

 

 

埴生護国八幡宮から車で約10分のところにある松尾神社を訪ねました。

 

大同年間(806~809)の頃に、山城国の松尾大社より勧請し、また同社から奉鎮した手向神社を合祀したとされています。

拝殿は、明治9年、旧加賀藩主前田家の祈願所であった明王院愛宕堂の拂い下げを受け移築したものです。

平成19年(2007)改築が計画されましたが元禄期の建築様式の原型に近い形での復元になりました。

 

 

 上 唐破風     左右 隅尾垂木「龍」・木鼻「獏」 

愛宕神社の社殿とはまた違った趣があります

愛宕神社<井波彫刻の粋が見られる社殿>
 

 


聖泉寺<「今石動」の地名の由来>

2012-01-13 | 旅行

旧北陸道沿いに建つ朱色の大山門。真宗大谷派の寺院、聖泉寺です。

 

斉明7年(661)、天智天皇が称制した年に大和国三笠山において創建され天台宗聖泉院と称しましたが、後に親鸞に帰依し、浄土真宗となった古刹です。兵乱により何度か移転し、天正元年(1573)に現在地に移転しました。

本堂の工匠は愛宕神社も手がけた井波彫刻の名工 松井角平。

こちらもご覧下さい。→愛宕神社<井波彫刻の粋が見られる社殿>

 

聖泉寺には、本尊の他に市文化財に指定された木造虚空蔵菩薩坐像(室町時代作)があります。

この菩薩像は、もとは能登半島にある石動山 天平寺(注1)の伊須流伎比古命の本地仏で愛宕神社に合祀されていましたが明治二年、神仏分離令で聖泉寺へ移されたものです。

(注1)石動山 天平寺
加賀、能登、越中の山岳信仰の拠点霊場として栄え、石動山に坊院を構えた天平寺は、天皇の御撫物の祈祷をした勅願所である。最盛期の中世には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊360余り、衆徒約3,000人の規模を誇ったと伝えられる。祭神は五社権現と呼ばれ、イスルギ修験者たちを通じて北陸から東北にかけて分社して末社は八十を数える。南北朝時代と戦国時代の二度の全山焼き討ちと明治の廃仏毀釈によって衰亡した。
<ウィキペディアより>

 

石動山の言伝え   

「天平寺縁起」によると、能登石動山の由来は―昔天空から星が落ちてきて三個に分かれた。一つは天竺に、一つは中国に、あと一つは天平寺に落ちて大地をゆり動かした。それから天平寺の山号を石動山にした。それから天平寺の山号を石動山にした。今も石動山の伊須流伎比古神社に、動字石といわれる大石があり、異変があるとき、この石が動くという。
<『ふるさとガイド 小矢部』 発行 小矢部市 平成16年>

 
調査の結果、動字石は輝石安山岩で残念ながら隕石ではないとのことです・・・

 

菩薩像にまつわる「今石動・いまいするぎ」の地名の由来については諸説あります。

とつは、「天正10年(1582)前田利家(初代加賀藩主)が天平寺攻略の際、和睦の条件として差し出された本地仏である菩薩像を今石動城の鎮護として祀ったことから、葭原・池田と呼ばれていた土地を今石動というようになった。」とう説。

 しかし、<『小矢部市史 ―おやべ風土記編― 』発行 小矢部市 平成14年>には

「実際のところ、石動山での戦いに和睦は行われず、前田勢の攻撃により一山は焼け落ちたのであり、虚空蔵菩薩の差し出しもあり得なかったといわねばならない。」としたうえで、

亀年間(1570~1573)、たまたま、能登石動山で衆徒の内紛が起き、その際に同山の伊須流伎比古神社より分霊し、この愛宕神社に移したものであるという。こうして石動山の伊須流伎比古神社の本地仏虚空蔵菩薩を合祀した愛宕神社は、同社由緒によれば、「砺波ノ大宮」と唱えられ、宮嶋郷内の今石動町ほか四十九か村の惣社になったという。おそらく、この時点で愛宕神社は「今石動」と呼ばれるようになったと考えられる。前田秀継父子による築城後、城下町が「今石動町」と称されたのは、まさにその神社の名称から採られたものと考えたい。」

としています。

 

また、「石動」を「いするぎ」とする読み方については

<「石動の名のおこり」 京田良志 『ふるさとの石仏 第十一集』小矢部市教育委員会・小矢部市婦人ボランティア育成講座 平成2年>

「今石動」は、新儀の「石動」の意味である。本家の「石動」は能登と越中にまたがる「いするぎ」山であり、そこには、『延喜式』当時すでに伊須流伎比古神社があった。その「いするぎ」に、おそらく語源と音を考慮して「石動」の漢字二字をあてたのである。」

とする説があります。

 

愛宕神社に伊須流岐比古神社の分霊が勧請された元亀年間(1570~1572)には

山岳信仰 石動山信仰は越中において信仰の定着がかなり進んでいたとされています。

その後、大正13年(1577)に発生した推定マグニチュード7.8の内陸型大地震「大正地震」は当地を襲い

木舟城を崩壊し、新しく今石動の城下町をおこしました。     こちらもご覧下さい→前田秀継公夫妻・利秀公御廟<今石動の町立て>

自然に対し畏敬の念をいだき崇拝しながら未来に立ち向かってきた先人たちの歴史です。 

 

 

 


愛宕神社<絵馬堂>

2012-01-06 | 旅行

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

 

皆様、どのようなお正月を過ごされましたか?

元旦、神社に初詣に出かけましたが、参拝の列は例年より長く、御祈祷を受ける人やお守りを買い求める人で賑わっていました。

 

初詣ではよく受験の絵馬を見かけますが、愛宕神社には絵馬堂があります。

 

愛宕神社 絵馬堂

こちらもご覧下さい→愛宕神社<井波彫刻の粋が見られる社殿>

 

以下の文章は次の文献を参考にしました。

 ≪参考文献≫

「小矢部の絵馬 第1集(石動・南谷・埴生・北蟹谷) 発行:小矢部市教育委員会生涯学習センター」

「小矢部の絵馬 総集編 発行:小矢部市教育委員会生涯学習課」

 

絵馬は社寺に祈願をする時、また願いが成就した時、奉納する板に描いた絵です。

絵馬の由来:「馬は人間の持たない優れた能力を持っていたことから神聖視され、馬に乗って神が降臨すると考えられるようになった。祈願のために祭りや儀式の場に、当初は生きた馬が捧げられたようだが、次第に土馬や馬型、木馬などに代わり、その後、板に馬の絵を描いたいわゆる絵馬が主流となっていく。」<小矢部の絵馬 総集編 発行:小矢部市教育委員会生涯学習課>

向って右の絵馬は文字が薄くなって消えていますが、数学の問題と解答が10問書かれた珍しい「算額」の絵馬です。学問成就を祈念して、弟子に和算を教えた 岩村善右衛門が奉納しました。

 

雑俳(前句)奉納額。雑俳は、江戸後期に庶民に流行した民衆文芸。一枚に一首と挿絵が書いた板が112枚あります。愛好者が集まって奉納しました。

 

同じく愛宕神社所有の絵馬「忠臣蔵図」は、大阪の絵師 吉川芦光の安政6年(1859)の作。拝殿の幅に合わせて作ったもので<135×770>と小矢部市内最大の大絵馬です。

小矢部市内神社109(社)宮と2寺には絵馬が併せて1600余あり、最も古い絵馬は天明7年(1787)に荒川芹川亀保里神社に奉納された馬図(黒駒)です。絵馬奉納が最も盛んだったのは明治20年~30年代で「これら絵馬の1点1点は時代の変遷による内容の差はあるものの、神仏の前で祈願と報謝を託したことが感じられ、社会の様子や庶民の暮らしを生き生きと表す。」<小矢部の絵馬 総集編 発行:小矢部市教育委員会生涯学習課>貴重な民族文化財ともなっています。