1. 万葉のころ
大伴家持
「万葉集」の代表的歌人大伴家持は、天平18年(748)~天平勝宝3年(751)までの五年間、国守として越中に赴任し、223首もの歌を詠みました。
天平感宝元年(749)5月5日、家持は最高の賓客である東大寺の占墾地使僧平栄らを饗し、その時歓待の歌を詠んだ。
焼大刀を 砺波の関に 明日よりは 守部遣り添へ 君を留めむ (万葉集第18巻 4085)
”国境の砺波の関に、明日から番人をたくさん派遣して、貴殿が都へ帰られるのを止めよう”と。「焼大刀を」は枕詞で、「鍛えた大刀を磨くという、その砺波・・・・・」というふにトの音にかかり、当時は砺波のトにかけて「磨く」との意に感じ取ったらしい。またおびただしい数にのぼる家持の作品中助詞を「を」を伴う枕詞は他に一例もなく、この一首から万葉歌枕として日本文学史にその名をとどめている。<ふるさとガイド 小矢部 発行 昭和59年 小矢部市> |
倶利伽羅峠を通る源平ラインにある「砺波の関」
「焼大刀・・・・・・」の歌碑があります
砺波関
砺波関は和銅5年(712)に倶利伽羅付近に設けられたとされ、家持が赴任した頃には古関となりすでに関所の機能を失っていたとされています。しかし、前項の「焼大刀を 砺波の関に・・・・・」の歌や、家持が上京の折、部下の大伴池主に贈った歌、池主が越前国に転任した際に家持が贈った歌などに「砺波山」が使われていることから、砺波山を通る旧北陸道は官道となっていたようです。
見渡せば 卯の花山の ほととぎす 哭のみし泣かゆ
”景色を見渡すと、卯の花の山で鳴くホトトギスのように、泣けてしまいます。”
国の収支決算書の正税帳を中央政府に提出するため上京する事になった家持がその感慨を池主に贈り、それにこたえて池主が家持に贈った歌です。ここで使われたのが発端となり、「卯の花山」は越中の歌枕となりました。
「砺波山」「砺波関」「卯の花山」の枕詞は
王朝期に入ると、当時の歌人たちの詩情を誘い出し、いまだ見ぬ越中への憧憬歌となって花ひらいた。
<小矢部市史 上巻 発行 平成14年 小矢部市>
とされ、藤原為家・藤原家良・藤原顕季・守覚法親王・宗尊親王・藤原経房・小侍徒・讃岐らの和歌にはこれらの歌枕が使われてます。
大伴家持の通った北陸道は万葉の道であり、 歌枕を運んだ文学の道 でもあったようです。
倶利伽羅不動尊にみる古代信仰
砺波山 手向けの神に 幣まつり あが乞ひ祈まく
”砺波山の手向けの神に幣を奉り、私はこんなことを乞い祈りました”
前出「見渡せば・・・・・」と同一の長歌の一節。