いするぎ便り

歴史を求めて季節を感じて…
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おやべの文芸 <万葉のころ>

2012-02-24 | 旅行

1. 万葉のころ

 

大伴家持


 

「万葉集」の代表的歌人大伴家持は、天平18年(748)~天平勝宝3年(751)までの五年間、国守として越中に赴任し、223首もの歌を詠みました。

 

天平感宝元年(749)5月5日、家持は最高の賓客である東大寺の占墾地使僧平栄らを饗し、その時歓待の歌を詠んだ。   

 

焼大刀を 砺波の関に 明日よりは  守部遣り添へ 君を留めむ                    

(万葉集第18巻 4085) 

 

”国境の砺波の関に、明日から番人をたくさん派遣して、貴殿が都へ帰られるのを止めよう”と。「焼大刀を」は枕詞で、「鍛えた大刀を磨くという、その砺波・・・・・」というふにトの音にかかり、当時は砺波のトにかけて「磨く」との意に感じ取ったらしい。またおびただしい数にのぼる家持の作品中助詞を「を」を伴う枕詞は他に一例もなく、この一首から万葉歌枕として日本文学史にその名をとどめている。<ふるさとガイド 小矢部 発行 昭和59年 小矢部市>

 

倶利伽羅峠を通る源平ラインにある「砺波の関」

「焼大刀・・・・・・」の歌碑があります 

 

 

砺波関


 

砺波関は和銅5年(712)に倶利伽羅付近に設けられたとされ、家持が赴任した頃には古関となりすでに関所の機能を失っていたとされています。しかし、前項の「焼大刀を 砺波の関に・・・・・」の歌や、家持が上京の折、部下の大伴池主に贈った歌、池主が越前国に転任した際に家持が贈った歌などに「砺波山」が使われていることから、砺波山を通る北陸道官道となっていたようです。

 

見渡せば 卯の花山の ほととぎす 哭のみし泣かゆ

 

 ”景色を見渡すと、卯の花の山で鳴くホトトギスのように、泣けてしまいます。”

 

国の収支決算書の正税帳を中央政府に提出するため上京する事になった家持がその感慨を池主に贈り、それにこたえて池主が家持に贈った歌です。ここで使われたのが発端となり、「卯の花山」は越中の歌枕となりました。

 

 「砺波山」「砺波関」「卯の花山」の枕詞は

 

王朝期に入ると、当時の歌人たちの詩情を誘い出し、いまだ見ぬ越中への憧憬歌となって花ひらいた。

<小矢部市史 上巻 発行 平成14年 小矢部市>

 

とされ、藤原為家・藤原家良・藤原顕季・守覚法親王・宗尊親王・藤原経房・小侍徒・讃岐らの和歌にはこれらの歌枕が使われてます。 

大伴家持の通った北陸道は万葉の道であり、 歌枕を運んだ文学の道 でもあったようです。

 

 

倶利伽羅不動尊にみる古代信仰


 

砺波山 手向けの神に 幣まつり あが乞ひ祈まく

 

”砺波山の手向けの神に幣を奉り、私はこんなことを乞い祈りました”

 前出「見渡せば・・・・・」と同一の長歌の一節。

 

古代、山岳を旅する際には、「手向けの神 」(旅人の安全を守る神)に切実な祈願がなされました。
 
 
家持・池主のごとき地位の人にとっては、比較的安全が保障されており、従って歌にも余裕があり、儀礼的になっているが、一般の行路者にとっては、並々ならぬ不安と恐怖があり、祈願も切実だったのである。・・・・・
家持・池主・僧平栄らの儀礼贈答歌の背後に、当時の住民の歌わざる歌も読みとるべきであろう。
<小矢部市史 上巻 発行 平成14年 小矢部市>
 
 
 
 倶利伽羅峠にある日本三不動の一尊、倶利伽羅不動尊。    こちらもご覧下さい→倶利伽羅不動尊 山頂堂 
『養老2年(718)に、中国から渡来したインドの高僧 善無畏三蔵 が 砺波山に棲む魔物を、倶利伽羅竜王を勧請して退治し、その不動明王を祀った。このことからこの地を倶利伽羅と呼ぶようになったとされています。そして三蔵の奏請により、元正天皇の時代から 国家鎮護守倶利伽羅不動明王日本一社道の神と称えられ、歴代勅願所となったと伝えられています。』 
 
倶利伽羅不動尊所蔵の「倶利伽羅縁起」にみる<神話+仏教>、口承文学「三州奇談」にある<「すべて死せる者必ず此坂を越えざるはなしと聞けり」>などから、砺波山の山中には立山信仰と同じような信仰が存在したのではと言われています。
 
 
 
歴史国道

 旧北陸道は、歴史的・文化的価値が評価され、平成7年6月に建設省により「歴史国道」として認定されました。
 

メルヘン建築<石動中学校>

2012-02-17 | 旅行

小矢部は「メルヘンの街おやべ」として有名です。

 

Q. なぜ、メルヘンなの?

A. メルヘン建築があるからです。

 

メルヘン建築とは世界の有名建築を建物の一部に取り入れた公共施設のことで、市内には保育所、小中学校、体育館、公民館、特別養護老人ホームなど35の施設があります。

メルヘン建築の詳しい紹介です。(画像あり パンフレットのダウンロードができます。)→小矢部市観光協会ホームページ

 

旧北陸道でもある越前町商店街を商工会前の交差点まで進み左に曲がると石動中学校の時計台が見えます。

 

時計台は英国の国会議事堂ビックベンがモデルです。

夜間 ライトアップ中!

12月~2月 【土曜日・日曜日の 18時から21時まで】
3月~11月 【土曜日・日曜日の 19時から21時まで】

 

街中を散策すると出会う 寺院・神社・石仏・メルヘン建築。

日常の中にある非日常が不思議な、そしてどこか懐かしい空間を創りだしています。

 

 

 


 

当初はその珍しさが話題になったメルヘン建築も建築から20~30年が経ち、街のシンボルとしてすっかり周囲に溶け込んでいます。

小矢部に生まれ育った市民はメルヘン建築のある美しい風景が原風景となっています。

 


仁真寺<遠祖 英雄 源義経ノ家臣 片岡八郎ナリ>

2012-02-10 | 日記

仁真寺(真宗大谷派)は源義経の家臣、義経四天王の一人であり清和天皇の嫡流 片岡八郎経晴が源頼朝に都を追われ奥州藤原氏の元に落ちのびる途中、倶利伽羅峠にて義経と惜別し友人宅に身を寄せた後、隆法坊と称し草庵を営んだのが始まりとされています。

もとは天台宗でしたが親鸞上人が越後配流の折、真宗に帰依し石山合戦(1570)の功により、本願寺より仁真寺の寺号を受け、慶安2年(1649)現在地に移転しました。

 

 

片岡家 系図

遠祖  英雄 源義経ノ家臣、片岡八郎ナリ。

義経公ハ英雄ニシテ兄頼朝ヲ助ケテ平家ヲ倒シ源氏再興シタルモ中傷ノ為兄弟不和トナリ義経公奥州平泉ノ藤原秀衡ヲ頼ッテ家臣十二人ト共ニ下向シタルニ国々ニ新閑ヲ設テ山伏ヲ取調タルニ有名ナ加賀国安宅関ノ問答トナリ関守富樫左右衛門尉ノ情ニヨッテ通過シタルモ加賀越中ノ堺ナル倶利伽羅ニテ主従惜別トナリ片岡八郎ハ友人水牧六佐ェ門方ニ身ヲ寄セ其後越中国石動駅に一宇ヲ建立シ仁真寺ト号シ真言宗トナル

仁真寺様より頂いた資料です 

 

「安宅の関」 


 

義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に 山伏の姿で通り抜けようとする。しかし関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いていた。焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると弁慶が言うと、富樫は勧進帳を読んでみるよう命じる。弁慶はたまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問い質(ただ)すが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。富樫は通行を許すが、部下のひとりが義経に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、疑いを晴らす。危機を脱出した一行に、富樫は失礼なことをした、と酒を勧め、弁慶は舞を披露する(延年の舞)。踊りながら義経らを逃がし、弁慶は富樫に目礼し後を急ぎ追いかける<ウィキペディアより>

 

 

歌舞伎「勧進帳」


 

 「安宅の関」の物語は能「安宅」、歌舞伎「勧進帳」として演じられてきました。

歌舞伎「勧進帳」は人気の高い演目です。

緊迫したストーリに、これぞ歌舞伎といった見せ場が続きます。

息もつかせぬ「山伏問答」、朗々と読み上げる勧進帳、「延年の舞」に豪快な飛び六法。

智・仁・勇によって展開する判官贔屓の物語を軸に豪快な荒事が加わり存分に楽しめます。 

よっ 成田屋~


観音寺(真言宗)<節分会>

2012-02-03 | 日記

本日(2月3日)観音寺(真言宗)で行われた節分会(星まつり・福豆まき)に行ってきました。

節分会では旧暦の元旦にあたる立春の前日、つまり旧暦の大晦日にあたる節分に、「除災招福」(悪鬼を払い、幸福を願う)を祈願します。

 

読経が始まり、まずは星まつりが行われました。

星まつりとは災いを除くために個人個人の当年星と本命星を供養するものです。

厄除護摩祈祷の後、観音堂に祀ってある星曼荼羅についてお話がありました。

曼荼羅絵には中央にお釈迦様、上部に北斗七星、その周りには58の仏様が描かれているそうです。

人の生死には星が関わっていて、万物は宇宙の計らいであるとお話されました。

 

そして、福豆まきが行われました

福豆まきの様子です

 

今年の恵方は北北西。歳徳神様(その年の福徳をつかさどる神 歳神様)が北北西に位置するからで一年間有効だそうです。

ちなみに、災い=鬼 は丑寅の方角から入ってくることから 鬼の角=丑の角 パンツ=トラ柄だそうです。