あした
大槌町に行ってくる
あの地震、津波の事は
どう話していいか分からない
…
俺は秋田県との県境まで仕事で行っていて戻って来る途中だった
カーブが連続している山の中の道をもうじき抜けると言う時
2時46分を迎えた
後ろのタイヤがパンクしたのだと思った
間もなく峠を抜けるから
そうしたら車を停めて見てみようと思った
路肩に車を停めてみると車が跳ねるように揺れていた
地鳴りが酷かった
電信柱が揺れていて
走っているどの車もパンクしてると錯覚しているのか
何度もブレーキランプが付くのが見えた
高圧線の鉄塔がそばにあり
ギシギシと不気味に音を立てていた
ラジオを付けるとアナウンサーが『逃げてください』と言うようなことを
何度も何度も何度も言っていて
でも、そう言いながらも津波は来ないでしょ?
って思っていた
いつも津波警報が出されても50センチの津波を観測した…なんて言うし。
会社に戻ろうと車を走らせていて気づいたのが停電だった
どの信号機も付いていない
いつも付いている店の看板も消えている
途中でお客さんの現場があったので寄ってみた
『すごかったねぇ…』
『建物に被害が無かったから良かったけど』
この時はまだ呑気な会話をしていたのだと今になると思う
俺は大槌の友達にメールしてみることにした
『大丈夫だった?津波が来るらしいよ?』
俺の頭の中で大槌の地図を思い浮かべる
海からは遠かったよね…って思う
メールの返事が来ない
もう一度『大丈夫だよね?』ってメールした
返事は来なかった
俺もどこか呑気に思っていたんだと思う
実家に寄って顔を出して無事を確認して
なにも壊れたものが無いと聞いた
ここで携帯電話でテレビが見れることを思い出した
画面には漁港らしい場所に何台もの車が流されてぶつかって
そういう映像に見えた
でも…ホントか?こんな事ってあるの?
まだ、どこか信じられないでいた
その近くの知り合いの床屋さんに顔を出してみると
何かが落っこちて壊れた程度だったと聞いた
それから当時住んでいたアパートに向かう途中
塀が崩れているのを見たり
店の看板が外れて落ちたりしているのを見た
…
アパートの部屋がすごい事になっていた
食器棚が倒れて中身が散乱して
オーブンレンジも床に落ちて壊れていた
冷蔵庫の扉が開いていた
ソースとか醤油とか
そういう匂いがして
散乱した食器類の下で調味料がこぼれているんだなと思った
でも…一人で片づけられるような状態じゃなかった
…
会社の建物
外壁は長いひびが走っていた
…
被災者とか被災地と言われると
こんな程度だったウチの地域はその部類に入るとは思えない
停電のせいでお風呂に入れなかったものの
ガスが通っていたし
水道も出たので、何とか食事だけは出来ていた
スーパーで買い物するのも行列に並んで買ったりもしたし
ガソリン不足でカミさんは歩いて通勤したりした
でも、被災したなんて感じてないと思う
話が前後して申し訳ないけれど
地震のあった日は冷蔵庫の中のもので
腐るかも知れないっていう物を食べた
懐中電灯の明かりで茹でたウインナーを食べた
余震がすさまじかった
寒いから早く布団に入って
余震が来るたびにビクビクして夜を過ごした
友達発信の口コミで「集めた物資を沿岸に届けよう」となったのは
地震から1週間するかしないかぐらい
出発前日に公民館を借りて物資の仕分けをして
50人ぐらいの人たちで作業した
夜中まで仕分けしてた
…
翌日、トラック数台で出発し
あり得ない光景を目の当たりにした
テレビのニュースで見た津波の被害
それが見渡す限りどこまでも続いている
福島から青森までずっと沿岸地域がこうなっていると想像すると
なんとも言えない気持ちになった
テレビに映っていない場所なんてまだまだある
ブログでこの現状を伝えたい
知ってほしい
そう思って俺は何枚か写真を撮った
写真を撮っていると胸が痛んだ
俺が伝えようとすることに意味なんてあるんだろうか
シャッターを押すたびに罪悪感
面白半分で写真を撮っていると思われたら嫌だとも思ったし
本当に被災した人たちにしたら、ふざけるなという気持ちになるんだろう
決してそういうつもりじゃなかったけれど
でも、写真を撮るのは違う気がした
結局ブログに写真は載せなかったように記憶している
今でも画像は残してある
大槌の赤浜地区
ようやく自衛隊ががれきをよけて車が通れるようになったばかりの所を
物資を積んで入って行ったのだ
その写真は今も見ることがない
ただ残してとってあるだけだ
結局
連絡のつかなかった友達は車ごと津波に流されて
亡くなってしまっていた
引き上げられたのは5月だった気がする
何をしたって死なないヤツだと思っていたし
そういうキャラだった
強面ですぐキレる
でも笑うと可愛い顔をしていて
憎めない人だった
材木工場の倉庫にたくさんの遺体が安置されていて
遺体の身元確認が取れた彼と、彼の父親を火葬場に連れて行った
俺が彼の入った棺桶を運んでるという実感も何もなかった
だから涙も出なかった
違うんじゃね?って思って、思い込んで
思い込むようにしてた
火葬が終わって収骨しても
何をしても実感が無い
だって死ぬような奴じゃないんだもの
彼の父親も死ぬわけないもの
…ってまだ俺はどこかで思っている
半分だけ受け入れて
半分は信じてない
宙ぶらりんでいいんだと思うようにしてる
あした
大槌に行く
全部を奪った津波だと思ったけれど
彼が亡くなり何度も大槌に行くうちに
彼の友達だと言う人と何度も会い
友達の付き合いになった
彼と親しかったという人たちは皆いい人たちばかりで
口数は少ないけれど胸に熱い物がある人だったり
濁りの無い純粋な優しさを持った人だったり
愛のある人たちだ
…生きてるうちに紹介してくれても良かったんじゃね?
って思ったり
言葉にならない思いだらけだ
被災してもいない俺が言うのは変だろうか
いや、ホント
正直言ってこういう事をブログに書くのも戸惑う
でも
何かを受け入れるために
震災から俺もちょっと強くなるために
しょうがねぇ来てやったぜって言うために
…
あした
大槌に行く
大槌町に行ってくる
あの地震、津波の事は
どう話していいか分からない
…
俺は秋田県との県境まで仕事で行っていて戻って来る途中だった
カーブが連続している山の中の道をもうじき抜けると言う時
2時46分を迎えた
後ろのタイヤがパンクしたのだと思った
間もなく峠を抜けるから
そうしたら車を停めて見てみようと思った
路肩に車を停めてみると車が跳ねるように揺れていた
地鳴りが酷かった
電信柱が揺れていて
走っているどの車もパンクしてると錯覚しているのか
何度もブレーキランプが付くのが見えた
高圧線の鉄塔がそばにあり
ギシギシと不気味に音を立てていた
ラジオを付けるとアナウンサーが『逃げてください』と言うようなことを
何度も何度も何度も言っていて
でも、そう言いながらも津波は来ないでしょ?
って思っていた
いつも津波警報が出されても50センチの津波を観測した…なんて言うし。
会社に戻ろうと車を走らせていて気づいたのが停電だった
どの信号機も付いていない
いつも付いている店の看板も消えている
途中でお客さんの現場があったので寄ってみた
『すごかったねぇ…』
『建物に被害が無かったから良かったけど』
この時はまだ呑気な会話をしていたのだと今になると思う
俺は大槌の友達にメールしてみることにした
『大丈夫だった?津波が来るらしいよ?』
俺の頭の中で大槌の地図を思い浮かべる
海からは遠かったよね…って思う
メールの返事が来ない
もう一度『大丈夫だよね?』ってメールした
返事は来なかった
俺もどこか呑気に思っていたんだと思う
実家に寄って顔を出して無事を確認して
なにも壊れたものが無いと聞いた
ここで携帯電話でテレビが見れることを思い出した
画面には漁港らしい場所に何台もの車が流されてぶつかって
そういう映像に見えた
でも…ホントか?こんな事ってあるの?
まだ、どこか信じられないでいた
その近くの知り合いの床屋さんに顔を出してみると
何かが落っこちて壊れた程度だったと聞いた
それから当時住んでいたアパートに向かう途中
塀が崩れているのを見たり
店の看板が外れて落ちたりしているのを見た
…
アパートの部屋がすごい事になっていた
食器棚が倒れて中身が散乱して
オーブンレンジも床に落ちて壊れていた
冷蔵庫の扉が開いていた
ソースとか醤油とか
そういう匂いがして
散乱した食器類の下で調味料がこぼれているんだなと思った
でも…一人で片づけられるような状態じゃなかった
…
会社の建物
外壁は長いひびが走っていた
…
被災者とか被災地と言われると
こんな程度だったウチの地域はその部類に入るとは思えない
停電のせいでお風呂に入れなかったものの
ガスが通っていたし
水道も出たので、何とか食事だけは出来ていた
スーパーで買い物するのも行列に並んで買ったりもしたし
ガソリン不足でカミさんは歩いて通勤したりした
でも、被災したなんて感じてないと思う
話が前後して申し訳ないけれど
地震のあった日は冷蔵庫の中のもので
腐るかも知れないっていう物を食べた
懐中電灯の明かりで茹でたウインナーを食べた
余震がすさまじかった
寒いから早く布団に入って
余震が来るたびにビクビクして夜を過ごした
友達発信の口コミで「集めた物資を沿岸に届けよう」となったのは
地震から1週間するかしないかぐらい
出発前日に公民館を借りて物資の仕分けをして
50人ぐらいの人たちで作業した
夜中まで仕分けしてた
…
翌日、トラック数台で出発し
あり得ない光景を目の当たりにした
テレビのニュースで見た津波の被害
それが見渡す限りどこまでも続いている
福島から青森までずっと沿岸地域がこうなっていると想像すると
なんとも言えない気持ちになった
テレビに映っていない場所なんてまだまだある
ブログでこの現状を伝えたい
知ってほしい
そう思って俺は何枚か写真を撮った
写真を撮っていると胸が痛んだ
俺が伝えようとすることに意味なんてあるんだろうか
シャッターを押すたびに罪悪感
面白半分で写真を撮っていると思われたら嫌だとも思ったし
本当に被災した人たちにしたら、ふざけるなという気持ちになるんだろう
決してそういうつもりじゃなかったけれど
でも、写真を撮るのは違う気がした
結局ブログに写真は載せなかったように記憶している
今でも画像は残してある
大槌の赤浜地区
ようやく自衛隊ががれきをよけて車が通れるようになったばかりの所を
物資を積んで入って行ったのだ
その写真は今も見ることがない
ただ残してとってあるだけだ
結局
連絡のつかなかった友達は車ごと津波に流されて
亡くなってしまっていた
引き上げられたのは5月だった気がする
何をしたって死なないヤツだと思っていたし
そういうキャラだった
強面ですぐキレる
でも笑うと可愛い顔をしていて
憎めない人だった
材木工場の倉庫にたくさんの遺体が安置されていて
遺体の身元確認が取れた彼と、彼の父親を火葬場に連れて行った
俺が彼の入った棺桶を運んでるという実感も何もなかった
だから涙も出なかった
違うんじゃね?って思って、思い込んで
思い込むようにしてた
火葬が終わって収骨しても
何をしても実感が無い
だって死ぬような奴じゃないんだもの
彼の父親も死ぬわけないもの
…ってまだ俺はどこかで思っている
半分だけ受け入れて
半分は信じてない
宙ぶらりんでいいんだと思うようにしてる
あした
大槌に行く
全部を奪った津波だと思ったけれど
彼が亡くなり何度も大槌に行くうちに
彼の友達だと言う人と何度も会い
友達の付き合いになった
彼と親しかったという人たちは皆いい人たちばかりで
口数は少ないけれど胸に熱い物がある人だったり
濁りの無い純粋な優しさを持った人だったり
愛のある人たちだ
…生きてるうちに紹介してくれても良かったんじゃね?
って思ったり
言葉にならない思いだらけだ
被災してもいない俺が言うのは変だろうか
いや、ホント
正直言ってこういう事をブログに書くのも戸惑う
でも
何かを受け入れるために
震災から俺もちょっと強くなるために
しょうがねぇ来てやったぜって言うために
…
あした
大槌に行く