チャイコフスキー 交響曲第5番
[d minor in Tchaikovsky's Symphony No.5]
父の家の整理と文A考案の疫で、正月早々また
咳が出るようになってしまった。昔、
「彼女とうまくいかなくて別れてしまい、
自暴自棄になってた。不摂生から
咳ばかりして痩せこけるはずが、
暴飲暴食を繰り返してたので、
ブクブク太ってしまった。そんな
独り寂しい我が暮らしを詠う」
という詞書を添えて、尾崎放哉ふうな
自由律(三・三・三)の俳句を某新聞の俳壇に
一句送ったが、落選してしまった。
「咳を、しても、太り」
オザキ真っ暗だった。が、現在も
似たり寄ったりである。そのせいか、
私の中では評価が低いリェーフ・タルストーィ
(いわゆるトルストイ=ロシア語でデブの意)を読み返しはせず、
「カレー煮ナ」という天の声が聞こえたので、
カリーのルーを煮てカレーうどんを食した。当然、
ルーを濾す間に口にした鼻歌は、
ハングリーならぬハンガリー人コズマの
♪カ~レ~は~よ~~~♪
というバレエ・シャンソンである。ところで、
煮る、といえば、案外、
高橋尚子選手と千葉真子選手の
声の調子やイントネイション、しゃべりかたは妙に
似てるのである。もっとも、レオナルドの
「洗礼者聖ヨハネ」と「CSI NY」の
ステラ・ボナセーラ役のメリーナ・カナカリーディーズ女史の顔の
似具合ほどではない。ちなみに、
この役名の由来の真意は知らないが、
同捜査官の設定はギリシアとイタリアのハーフ。
イタリア語で「ブオーナ・セーラ」は「こんばんは」である。
「ステッラ」は英語のスターであるが、子供のとき、
捨てっられて養護施設で育ったという設定だから、
こう名づけられたのかもしれない
(製作者に日本通がいるのは間違いない)。
この「CSI NY」の第3スィーズンに、
フィギュアスケイターが殺される事件がある。先日、
浅田真央嬢と織田信成が共通して使用してた
「仮面舞踏会」のワルツは、グラズノーフの
「コンツェールチェン・バーリス(コンサート・ワルツ)第1番」の中間部の
パクリである。まったくハチャメチャトゥリャンな話である。
さて、ワルツといえばチャイコフスキーの「交響曲第5番」は、
ホ短調が主調である。交響曲は多楽章から成る、
主章=第1楽章がソナータであるオーケストラ作品であるが、
この交響曲の主章は序奏もホ短調で、
主部の主主題(第1主題)も、当然ながら、
ホ短調(2♯)で提示され、再現される。が、その
再現の手前で、チャイコフスキーはこの交響曲を実質
「ニ短調(1♭)」にシフトするのである。その前、
第2主題を「変ホ短調」で展開し、第1主題の断片を、
「ロ短調」→「ホ短調」→「イ短調」→「ニ短調」
と順次5度ずつ転じていき、第2主題第2部の律動、
「タータ・タータ」を同型反復してくのである。そして、
「fff」のクライマックスで第1主題の
♪la lala-^ti^do♪を
♪fa fafa-^♯so^la♪
と変形する。曲は、
その「ニ短調」のまま展開部を終了し、
「ニ短調」の「so」である「c」を
「ホ短調」の「fa」と置換して第1主題を
ファゴットの独奏で再現させるのである。
それはさておき、上記の
♪fa fafa-^♯so^la♪
は、第3楽章「ヴァルス」の嬰ヘ短調の中間部で、
スピッカートのvnプリーモによるクレッシェンド<>ディミヌエンドな
主題のうしろで木管が低いところから上昇する
背景音の最後(オーボエが吹く)で、
♪ fa-^♯so-│^la-♪
と打ち込むのである。ところで、
米cbs-tvの"60 minutes"(邦題「cbsドキュメント」)が
特集して話題を盛り上げてたグスターボ・ドゥダメルと
スィモン・ボリーバル・ユース・オーケストラ・オヴ・ベネスエラであるが、
12月の来日公演はどうしても時間の都合がつかず、
聴きにいけなかった。が、チャイコフスキーの
「交響曲第5番」のCDが出たので買って聴いてみた。
めずらしくすべて聴いてしまった。久々に出た
真っ当な指揮者である。オケも元強盗殺人者や
ヤクの売人の更生者で構成されてるらしいが、
fとpの違いをそこらへんのボンクラオケよりも
数段に理解し再現させてる。昨年1月の
首都カラカスでのライヴ録音だそうであるが、
それなのに、繊細なチャイコフスキーの音を
細心に注意して再現させる努力をしてるのが
よくわかる。が、もちろん、
すべてがいいわけではない。他の
ボンクラ指揮者、オケよりはるかにまし、
という程度ではある。第1楽章主部第1主題の
テンポは遅すぎるし、逆に、
第4楽章の主部のテンポは速すぎる。これでは、
「ベト5」に対してフルトヴェングラーが採ってたあざとい
「ストレッタ」戦術とおなじになってしまう。が、
それでも、他のろくでなし演奏よりは
遥かにましである。こういう指揮者とオケこそ、
チャイコフスキーを演奏するに値する。
ムラヴィンスキーだのゲルギエフだの、
あの聴くに耐えない似非チャイコフスキーを、
決定版、絶品、これぞチャイコフスキー、
などと言って崇めてるむきの気が知れない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます