俊成・定家父子 式子内親王 素数関係 百人一首
今年は、藤原定家(およそ西暦1162-1241)の生誕850年にあたる。
生年は判ってるが、誕生日は不詳らしい。
私がまだ17歳だったとき、
いわゆる"クリーム色"のカヴァーの講談社新書から、
「西行と定家」が発行された。著者は、
安田章生(やすだ・あやお、1917-1979)という"歌人"らしく、
その父安田喜一郎(青風、1895-1983)も"歌人"だったという。
レヴェルはともあれ、俊成・定家父子と同じ、である。それはどうでも、
最近のソフィー・マルソー女史と十朱幸代女史の顔を判別できない
拙脳なる私の37年前の心許ない記憶では、この「西行と定家」には、
<菅笠を、着たる男の、馬に乗り、川の向かひを、通るなりけり>
が、定家が10歳にもならないときに詠った歌だと記述されてた
……と思う。どう考えても、いくら幼いにしても
「定家の作」というにはあまりにも"不自然""不出来"な歌である。
この「西行と定家」という本は、10代の頃に土日を過ごした
横浜の家にずっと置いたままだった。子供の頃の本は
父が死んで一昨年その家をたたんだときに
東京の母のマンションの私の部屋に一括して運んできた。が、
まだ荷解きをしてないのでどこにあるのかわからない。ので、
書いてあったことを手元で確認できない。出典が
どう書かれてたかも思い出せない。いっぽう、
確かな記録としては、定家(数え)17歳のときの、
治承2年3月15日の、現在の上賀茂神社の神主賀茂重保主催の
「三題各三十番歌合」が定家の"デビュタント"とされてる。
[神山の、春の霞や。ひとしらに、あはれをかくる、しるしなるらん]●
[桜花。また立ちならぶ、物ぞなき。誰まがへけん、峰のしら雲]△
[ふかからぬ、汀にあとを、かきとめて、御手洗河を、たのむばかりぞ]●
2敗1分け、という「ほろ苦い」結果である。ちなみに、
判者は父俊成だった。定家は、異母兄弟や養子を除けば、
俊成の次男である。長兄成家(なりいえ)とは9歳離れてる。
俊成(数え)49歳のときの子である。
俊成(およそ西暦1114-1204)は(数え)91歳まで生きた長寿人である。
アラフィフでもファイザー製薬要らずだったのである。現在なら、
昨日1月11日に満91歳を迎えたバレエの谷桃子女史のように
「90越え」はざらにいる。定家も(数え)80歳まで生きたので、
長寿遺伝子を備えてたのだろう。が、さすがに
「俊成は100歳、定家も100歳。ダスキンギン!」
というCMまでは作れなかった。ときに、
「かるた取り」としての「百人一首」が人気、
などと正月のTV番組でやってた。その真偽はともかく、
定家といえば「小倉百人一首の撰者」という側面も持ってる。
定家は(数え)18歳のときに俊成から「古今伝授」された、という。
そのことと、のちの「百人一首」、それに続いて編まれたと推定されてる
「百人秀歌」の「魔方陣性」を、太田明という人物が研究してる。
米TVドラマ"Bones"のドクター・カミーユ・サローヤン役のタマラ・テイラー女史と
故マイクル・ジャクスンの顔の違いを瞬時には判別できない拙脳なる私も、
それなりに考察してる。そのひとつが、
「百人一首の素数番歌の共通性」である。ここでは、
「1から100までの整数の中の素数」のうち、その最後の3つ、
「83、89、97」に限定して注視してみる。すると、
#083=皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)→(百人秀歌では)#087
[世の中よ、道こそなけれ。思ひ入る、山の奥にも、鹿ぞ鳴くなる]
#089=式子内親王(後白河天皇の第3皇女)→(百人秀歌では)#092
[玉の緒よ、絶えなば絶えね。ながらへば、忍ぶることの、よわりもぞする]
#097=権中納言定家(藤原定家)→(百人秀歌では)#100
[こぬ人を、まつほの浦の、夕なぎに、焼くやもしほの、身もこがれつつ]
#083の俊成と#097の定家は父と子、という「親子関係」である。いっぽう、
#089の式子内親王は俊成に歌を習ってたとされる。とすれば、
いわゆる「師弟関係」である。が、
13歳年上の式子内親王と若いツバメの定家は
「男女の仲」だった、というのが研究者の間でも
「一般的な認識」なのである。そして、定家が
この3人の歌として撰んだものはすべて、現世のつらさ、てか、
「憂き世」を詠ったものなのである。ちなみに、
太田明による、藤原定家が残した「10次魔方陣」では、
これら3首はすべて魔方陣の外枠に配置されてる。
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